音楽つれづれ日記

音楽好き、飽き性、そして中庸思考。

現代音楽を聞く その87

厳密にいうとロシアではないんですけど、

いろいろと説明がめんどくさいのでロシアにしときます(笑)

 

ロシアの作曲家、ソフィア・グバイドゥーリナ

彼女の音楽を最初に聞いたときは本当に衝撃でした。

その音色の使い方は独特で、聞いていると緊張を強いられます。

破天荒な指示を楽譜上にすることもありますが、

その音色の作り方はかなり厳格です。

 

最初に聞いたのは「7つの言葉」という宗教音楽でした。

が、よく聞いているのは、

彼女の代表作の一つである「Offertorium(オッフェルトリウム)」ですね。

一応、ヴァイオリン協奏曲という形式になってはいます。

 

 

私が持っているCDはこれじゃないんですけど、

若かりし頃のシャルル・デュトワの指揮で聞けるのはなかなか貴重です。

ちなみに私が持っているのはギドン・クレーメルソリストをつとめたやつです。

じゃ、そっちを紹介しろよ、って思われるでしょうけど(笑) 

おしごとのはなし?

お仕事の話をします。

 

といっても本業のお話ではなく、

フリーランスで行っている音楽のお仕事のほうです。

 

8月に予定されていた仕事がおじゃんになったことは以前書きました。

とはいえ、細々ながら仕事はしてるんですよ。

世の中がこんな状況なので、平時と比べたらだいぶ減っていますけど・・・

それでも、仕事が来るだけまだマシ、なんでしょうね、きっと。

家にいることが常態化していて(当たり前なんですけど)、

先月全く仕事をしていないという方も多くいらっしゃるようですし、

特定の業種の方は、感染のリスクを抱えながらも懸命に業務を遂行されています。

 

 

嫌なこと書きそうになったのでお話を戻します。

 

 

「編曲ってどんなことするんですか?」という質問を多くいただきます。

あと「アナリーゼ(楽曲分析)ってどういうことやるんですか?」

という質問も実は多くいただいております。

 

人によってそのスタイルは大きく違うと思うですけど、

たとえばパソコン(Macintosh)を使って作業される方も多いですし、

それこそ鉛筆と紙のみで作業される方もいらっしゃいます。

まあ、わたしなんですけど(笑)

 

新しもの好きではあるんですが、こと音楽に関わることに関しては、

総じてアナログ気質が強いような気がします。

編曲時も楽器も触らないで、ずっと紙と鉛筆で作業をしていますし、

(おかげでカフェとか食堂でも作業ができます)

分析を行うときも大体同じような感じです。

 

メロディやモチーフ(動機:短いフレーズ)の使い方や発展の仕方、

あるいはリズムの変化などを統計的に考えるやり方が主になります。

時にはメロディを細分化して、細分化したものを楽曲全体から探したり、

あるいは一つのリズムに着目して、それが楽曲にもたらす効果を考えたりします。

スケール(音階)を分析する場合には、その種類がどれに当てはまるのか、

また、ある箇所で使われた音階がほかの箇所でも散見される場合があるとき、

その音階を使用した意図を、使用前後の状態から推量したりします。

ペンタトニック(五音階)やシンメトリカル(ジャズ調)など、

数多くのスケールが存在しており、それらを熟知している必要があります。

数列やグラフなども分析で使うことがあり、

やっぱり音楽ってある種の学問なんだな、と思わされて辟易とします(笑)

 

と、少し小難しく書いては見ましたが、

音楽を楽しむのに理屈はいらないです。逆に邪魔です。

だから客席に座って演奏会を楽しもうとする瞬間に、

そういう理屈はなるだけ忘れるようにしています。

聴くは易く、アナリーゼは難し、って感じでしょうか。

 

 

今度、ブログ上で具体的なアナリーゼをやってみようかな、と思ってます。

こういうのって文字だけだとどうしても伝わりにくいことが多いので・・・

 

というわけで、今日は久々に音楽仕事やってます(笑)

ブラスぷらす Op.22

前回はジェイムズ・バーンズの「アルヴァマー序曲」を紹介しました。

 

hw480401.hatenablog.com

 

バーンズの曲は結構聞いているんですけど、

昔の思い出具合から「アルヴァマー序曲」を最初に挙げてみました。

ただ、思い入れという点でいうともう一つ彼の曲で大好きなものがあるんです。

 

それが「詩的間奏曲(Poetic Intermezzo)」です。

 

tower.jp

 

私が持っているのはこのCDなんですが、すでに販売停止になってるようですね。

作曲者自らの指揮というのはやはり説得力が違います、

って前のブログでも書きましたけど(笑)、

たぶんこのCDに収録されている「詩的間奏曲」を一番聞いていると思います。

そのくらい好きです。愛してます。

 

吹奏楽というと、マーチをはじめとした勇壮なものが多い印象ですが、

こうした抒情性の強い優しい曲もあるのだぞ、と言われたような気がします。

なんでもそうですけど、決めつけるのは良くないですよね、

ということをこの曲を聞くと考えさせられます。

 

イライラを募らせることが多い昨今ですが、

音楽はそうした気持ちをやさしく癒してくれるものです。

こういう時だからこそ、音楽って大事なんです。

Incidental Music Vol.80

世間では自粛、Stay Homeということで、

自宅で仕事、自宅待機などでずっと家にいらっしゃる方も多いと思います。

かくいう私は在宅勤務がしにくい職業なので、

どうしても平日は通勤しなければならないわけですが、

休日(土日祝)は家でまったりとすることも多いです。

散歩と称して人のいない河川敷や公園に行くこともありますけどね・・・

 

家にいると必然的にテレビゲームをやることになるんです。

今大人気の「あつまれ どうぶつの森」も毎日マイペースでやってまして、

ようやく昨日、博物館がちょっと拡張したところです。

ああいうゲームってルールがかなりゆるいので、

自分のペースで少しずつ出来るってところが良いですよね。

 

今、なかなか買えないNintendo Switchですけど、

買った覚えのないソフトが一つ紛れ込んでいることに最近気づきました。

それが「ショベルナイト」です。

 

もちろん、買ってるからダウンロードされているわけで、

いつ買ったのか全く覚えていないんですが(笑)、

以前プレイしていたデータもあったので、たぶん少しやってたんでしょうね。

というわけで、せっかく見つけたのだからやってみようということで、

暇を持て余していた休日に最初からプレイし始めました。

 

で、プレイしてて思ったんですが、音楽がとても良いんですよ。

 


【公式】ショベルナイト Nintendo Switch版 発売記念トレーラー (日本版)

 

ファミコン時代の音色を模して造られた音楽をチップチューンと言いますが、

まさにこのショベルナイトの音楽はそれです。

公式動画でも使われている「メインテーマ」はテンポよくかっこいいですし、

他にも「大地を削れ!」「アンチモンの華」など、

メロディに優れたアップテンポな曲が目白押しでした。

2年以上前に購入していたのに、なんでハマらなかったんだろう(笑)

ゲーム自体も難易度は少し高めですが、良質のアクションゲームです。

今さらおススメするのもどうかと思いますけど、面白いので是非。

 

あ、サントラも出てるのでそちらもどうぞ。

 

ショベルナイト オリジナル・サウンドトラック

ショベルナイト オリジナル・サウンドトラック

  • 発売日: 2016/11/01
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

 

Naama Gheber / Dearly Beloved【ジャズのススメ 130】

たまたまYoutube見てたんですよ。

そしたら、おススメ動画でこれが出てきたんです。

 


Dearly Beloved- Naama Gheber

 

友人の紹介でもなく、知人のおススメでもなく、

たまたま見つけたのがこれだったんです。

どうやらイスラエル出身のジャズヴォーカリストなんですけど、

ヴィブラフォンで、あのスティーヴ・ネルソンが参加してるのをみて、

動画見ながら叫んでました(笑)

 

まだアルバム全部は聞けてないんですけど、

これだけ聞いてアルバム即購入しました。

まだ手元に無いんですけど・・・

 

tower.jp

「知る」をしる

ここのところずっと同じようなニュースが続いてて、

新型なんちゃらという言葉が食傷気味です。

 

私自身ひきこもりができない性質なので、

散歩とか買い物とか外に出ようとするんだと思いますが・・・

もちろん必要最低限の、という条件付きです。

 

 

新聞ラックが会社の休憩室にあって、

そこには大手新聞社の新聞がだいたいすべて吊り下げられています。

なので、新聞は毎日ずっと読んでます。

新聞社によって意見が違うのは情報社会では健康の証でもあるんでしょうけど、

手広くいろんな新聞を読んでいるのならまだしも、

1つの新聞のみを読み続けるのは、結構危険だなと思ってます。

 

 

情報は多角的に、分析は多面的に。

 

私の高校時代の先生が良く口にしていた言葉です。

先生の専攻は化学だったんですが、私の担任でもあったので、

問題児だった私はことあるごとに職員室に呼ばれていました。

いい意味で可愛がられていた、というのは今ならわかりますけど、

当時の私はその可愛がられ方に嫌悪感を抱いていました。

そんな先生が、私と対する時によく話してくれた言葉が、上の言葉です。

 

「正面から見ると球形に見えるけれど、

ほんの少し横にずれて眺めてみると丸い球体ではなく、

金太郎飴みたいな長い棒状のものであることが多い。

つまりは見る方向を変えることで提示された情報が違って見えてくる」

 

と、高校時代の担任の先生は口を酸っぱくして言ってくれました。

それは「正しいか間違っているか」ということだけでなく、

「その情報が自分にとって有益かそうではないか」であり、

情報の取捨選択は送る側ではなく受け取る側にこそあるということだそうです。

おかげさまで、この年齢になっても一つの考えに固執することなく、

多角的に情報をとらえることが当たり前となってしまいました。

正否のみにこだわらず、また、正誤のみにもこだわらない、

なんとも不可解な性格が生まれてしまったわけですけど(笑)

 

情報を得ることが比較的容易になりつつあるこの時代ですら、

デマに誘発されパニックに陥り、

手のひらで踊り続ける人がわんさかいらっしゃいます。

 

かくいう私も、いつのまにか踊っている可能性もあるわけですが・・・

 

飛びつきたくなる情報の真偽すら確かめようとしないで、

鵜呑みにし、拡散、そして病原菌のように遍く広がり続けていきます。

その情報の源がどこからなのか確認すらしようとせず、

都合の良い記事は鵜呑みにして共有し、

都合の悪い記事は送り手が恣意的に情報を操作しているという妄想に抱かれる。

妄想が個人の中で暴走するならまだしも、

暴走した妄想を、さも真実であるかのように垂れ流してしまう。

妄想が共感を生み、共感が膨れ上がって事実にすり替わろうとします。

 

こういう状態だとなかなか正確な情報を知ることは難しいと考えます。

「結果ありき」で考えてしまいがちな方というのは、

鵜呑みと妄想を繰り返す癖をお持ちな方が結構いらっしゃるように見受けられます。

 

 

情報を「見る」のと「知る」のとでは大きな隔たりがあります。

 

 

自分の欲している情報に対して警戒が少ないのもそうですし、

自分の欲していない情報に対して疑念を抱き続けるのもそうですけど、

そうした人って「知る」ことを部分的に放棄しているように思うんですよ。

 

メディアが悪い、マスコミがひどい、っていうのはSNS上でも散見されますし、

そう言いまくっている人が、共感する情報が出現すると我先にと飛びつく傾向が高いような印象があります。

それが悪いというのでないんですけど、自己矛盾を抱えているということに気づかない方って割といらっしゃいます。

それがその人にとっての正義、と言ってしまえばそれで終わりなんですけど、

やっぱり正義は疑うべきものであるべきだと私は考えちゃうんですよね。

以前にも書いたと思うんですけど、

「自分が正しいと思い始めたら自分を心配しろ」というのは、

ある意味では真理だなと思うんですよ。

 

参考文献:

hw480401.hatenablog.com

 

 

ただまあ、こういうことをいうと怒られそうですけど、

いくら声高にSNSで正義を叫んだところで、その声が届く範囲って限定的なんです。

自分の意見に共感し、理解し、同じ朋友だと思う人がたくさんいるのだとしても、

それは「井の中の蛙」なんですよ。

プロパガンダ(思想宣伝)を意識的に、あるいは無意識に行っている方は、

やっぱり同調されると鼻が高くなってくるんでしょうし、

自分の意見に自信を持ってしまう傾向が高いんだと思います。

「私の周りには同じ考えの人がたくさんいる」なんて豪語する人がいますけど、

それってリアル社会でのことじゃなくて、

Twitterをはじめとした閉鎖的社会での『私の周り』だったりします。

そりゃそうです、自分のお気に入りの人しか侍らせないんですから、

意見が一致しないほうが難しいはずですよね。

嫌なことばっかり言ってくる人は、報告なりブロックなりして意見が見えないようにしてしまえばいいわけですから。

 

でも、そうした閉鎖社会で、いくら人を扇動したり鼓舞したりできても、

結局大きな意味で変化ってそれほど多くないと思います。

井の中の蛙がいかにして大海を知ろうとすればいいのかって、

結局は「知る」を知ることが一番近道なのだろうなと思っています。

 

イデオロギー(社会思想傾向)というのは、

その人の社会的立場に大きく左右されるものです。

富裕層かそうでないか、あるいは指導者かそうでないか。

愛国者なのかそうでないか、日本人なのかそうでないか。

立場はそれぞれ違えど、ひとしく情報を知る権利はあります。

自ら情報を取りに向かうか、受動的に情報を待つかの違いはありますが、

それでも一定量の情報を知ることが出来るはずです。

ただ、そこにイデオロギーという魔法をかけてしまうと、

途端にその情報は過度なメイクが施された、禍々しいものへ変化します。

 

「情報が操作されているかもしれない」

「この情報のソースは信憑性に乏しい」

信じたくない情報を目にすると、人はそれを拒否しようとします。

あらゆる拒否事由を想定し、自分を納得させようとします。

つまりは、すでに本人の中で確固たる正解(という想像)が用意されていて、

その正解に程遠いものが出てくるとそれをはねのけようとします。

その人にとっての正解(という妄想)に近しい意見が出てくると賛同して、

仲間を得たかのように意気揚々とその意見をひけらかします。

 

そういう人たちって反対派の意見に耳を貸さない方がたくさんいらっしゃるようです。

その人をブロックしたり、揶揄して追い払ったりすることが多いわけで。

「この人には何を言っても無駄」と思うのは、

前述の「正解がすでにその人の中にある」というのが大前提です。

私なんかから見たらどちらも気持ち悪いし近づきたくない存在です。

だったらトレンドとか検索して見なきゃいいんですけど、

見てしまうんですよね、これが(笑)

 

 

こうして書いてみて思ったんですけど、

自分の正義を信じ切っていて、何言っても正しいんだから問題ない、

って思っている人って実のところはそれほど多くないんだろうなぁと。

一部、気色の悪い輩が声高に妄執ともいえる叫びをしていることはありますが(笑)

 

ただ、そうして声高に文字で叫んでいるのって、

言い方が少しアレですけど、滑稽に見えてくるんです。

SNSって拡散力はあるんでしょうけど、社会への影響度はそれほどでもないですから。

そうした自ら掲げる「偏った正義」の支持層には確実に届いてるんでしょうけど、

いわゆる私みたいな中庸層だったり、無関心な人たちから見ると、

「何をそんな必死になってんだ」ってな感じです。

少なくともSNSなどで「知る」ことってほとんどないです。

個人的見解を分析するには、多少は有用かもしれませんけど、

そこから何を分析したところで、結局はイデオロギーのぶつかり合いですから。

「ああ、またなんか言ってんなぁ」くらいの気持ちで、

ほんのちょっと流し見する程度にとどめておくのが一番健康的です。

 

ちょっと本題からそれたので戻します。

 

 

ネットニュースも新聞も、どちらかと言えば中立とは遠いところにいます。

賛成派と反対派が入り乱れて、双方で冷戦状態が続いているような感じですかね。

冷戦ではないかもしれませんけど・・・

 

新聞や雑誌、あるいはネット記事などは、

すべて個人、あるいは特定の思想に基づいて書かれていることがほとんどです。

個人が文章を書いていて、それらを統括する人が君臨している以上、

そこに中立的な意見というのはほぼ存在しません。

意図的であるか否かを問わず、報道とはそういうところだと私は考えます。

そこから情報を鵜呑みにしてしまうと困ったことになります。

かといってすべてを疑ってしまうと何も得られるものはありません。

 

物事を「知る」というのは、射幸的な見出しだけを見ることではなく、

巧妙に紛れ込んでいる事実を認識することだと思っています。

記事を書いた記者の個人的な思いや意見を躊躇なく切り捨てて、

そこから情報のエッセンスを抽出して、事実を確認する。

意図的な誘導や恣意的な意見などは出来るだけ切り捨てていくことが必要です。

一方向から見ただけでは情報は正確にはとらえきれません。

煽情的な文言はそれだけでとても魅力的に映るものですが、

そこにばかり気を取られていると足元をすくわれかねません。

読書感想文でしたらそれでもOKではあるんですけど、

「知る」というのは、垂れ流された感想を見ることではありません。

 

じゃあ、「知る」とはどういうことなのでしょう。

 

予想に反して少し哲学的になってきましたが(笑)

 

私は「常に問い続ける」ことだと思っています。

プロパガンダとして批判や賛美をするのもその人たちの自由ではありますが、

優位性を誇示して居丈高になるのも、確かに快感ではあるんでしょうけれど、

その優位性が実は薄氷である可能性も考慮しなければなりません。

得意満面で君臨し続けているところが果たして安定したところなのかどうか、

それを自ら問い続けてみるのも一つの方法として有効なのかもしれないです。

 

読書感想文や本のレビューだけを読んでも、その本を読んだことにはならないように。

人が実況しているゲーム動画を見て、

そのゲームをプレイしたのと同じであると断定することが難しいように。

口コミやレビューなど、会ったこともない人の感想を鵜呑みにしてしまうよりも、

自分で実際に見たり聞いたり触ったりしたことの方が信頼度は高いですよね。

昔の人はいいことを言っています。

曰く「百聞は一見に如かず」と。

 

こんな時世だから、どうしてもストレスフルになり、

その感情を全方向に爆発させたくなる気持ちもわからなくはないです。

ああ、今自分は直情的になってる、と自覚したら少し深呼吸してみてください。

汚い言葉で相手を罵ったり、敬称略でだれかを非難したり、

自分のやっていることを一歩、いや半歩下がって見てみると、

もしかしたら、なにかが見えてくるかもしれません。

いや、保証は出来ないんですけど・・・

 

最後までまとまりのないブログでしたが、

なんとなく伝えたいことは伝えられたような気がします。

錯覚かもしれませんけどね(笑)

現代音楽を聞く その86

イギリスの作曲家、ハリソン・バートウィッスル。

出会ったのは他の現代音楽と同様に、学生時代でした。

 

最初に聞いたのは室内楽の「Tragoedia」だったと思います。

ラテン語で「悲劇」を意味する言葉ですが、

室内管弦楽編成となっており、音色がとても重厚だった記憶があります。

この音色を今から半世紀以上前に構築していたかと思うと驚きです。

 

Triumph of Time

Triumph of Time

  • アーティスト:Birtwistle, H.
  • 発売日: 2012/07/31
  • メディア: CD
 

 

室内楽好きではありますが、

彼の管弦楽曲にも興味を持ち、聞いたのがこのCDです。

「The Triumph of Time」(時の勝利)と題された曲は、

もろに私の好みの音色でした(←聞いた当時のお話です)。

勝利とは程遠い音色にも聞こえるかもしれませんけど、

当時の私はこれを聞いて興奮して眠れなかったんだそうです。

ホームステイ先のおかみさんが後で教えてくれました。

私自身は記憶にないんですけど・・・(笑)

 

ともあれ、いわくつきの楽曲です。

今聞くと、当時のことを思い出して泣きそうになります。