伊坂幸太郎さんの作品が好きで、だいたい著作は読んでいます。
そんな伊坂さんの作品でこういう文章がありました。
「正義とかそういうのって曖昧で、危ないものだから」
また、こういう言葉も出てきました。
「自分が正しいと思いはじめてきたら、自分を心配しろ」
この言葉を見て、「ああ、なるほど」とひざを打ちました。
正義=曖昧で危ないもの、とは言いえて妙です。
私自身、正義という言葉に対してかなり懐疑的な立場の人間です。
この言葉を多用する人って薄っぺらいなぁと思ったりしますし、
まあでも、それはそれで本人の「正義」なんだろうなと思ったりします。
リアルでは管理職という立場もありますし、
元々の性格がフラットなものの見方をしてしまう傾向が強いこともあり、
私自身は、優劣とか正否ということを真っ先に考えないんですよね。
「相手はどういう考え方なんだろう」とか、
「私と意見が違うのはなぜなんだろう」という感じで、
相手の意見や立場を考えて物言いしてしまうんです。
こういう態度なので、変な軋轢を生むこともあるにはあるのですが。
たとえばオーケストラコンサートに行くとします。
すると、演奏中に年配のご婦人がカバンの中から飴を取り出そうとするんです。
「演奏中に何やってんだよ」と怒る一方で、
別の自分が「なんでこのタイミングで飴を取り出すんだろう」と、
疑義を呈する形で頭の中がぐるぐるし始めるんです。
多重人格というわけではないんでしょうけど、
感情的な思いを抱くと同時に、俯瞰的な見方をしてしまう自分を発見します。
たとえばソーシャルゲーム(スマホなどで遊ぶ無料ゲーム)をしてる人が、
多くのお金をそこに注ぎ込む、つまりは課金しているとします。
「うわぁ、もったいない」と思う自分がいる一方で、
「そこまで彼(または彼女)を駆り立てるものはなんなんだろう」と、
その行動原理を分析しようとする自分がいるわけです。
自尊心が強くプライド高い一面がある一方で、
卑屈でネガティヴなことを考えて諦観に襲われてしまう、というのが私です。
常に相反する物事を考えてしまう、とでも言えばいいんでしょうか。
どっちつかず、とも言いますけど・・・
以前であれば、元来短気な性格の私は、
怒りにまかせて感情的な態度をとることが多かったはずなんですけど、
年を取って少し性格に丸みが出てきてしまったのかもしれませんが、
おいそれと激することが少なくなったような気がします。
(ゼロではないです、そりゃ人間ですから)
自分が正しいと思いはじめてきたら、自分を心配しろ。
これってなかなかに難しいことなんじゃないかと思います。
特にTwitterなどのSNSで顕著なところだと思うんですけど、
一度「こうだ!」と思い始めてしまうとなかなか抜け出せないものです。
そして「こうだ!」と思い始めた人が自分のほかにもこれだけいるんだ、
ということが容易にわかってしまうのがSNSのこわいところでもあります。
「あいつのこと嫌いなんだよ」
「うんうん、わかる、私も嫌い」
という意見で団結していく一方で、
「あの人のこと、大好き」
「うんうん、わかる、私も大好き」
という意見もあって、それぞれが団結していくことになります。
双方が違う意見を持っているわけですし、自分の方が正しいのだと思い込んでます。
賛成派に反対意見を述べること、あるいはその逆の行為を行った場合、反発を招くことは必至です。
正しいと思っていることに疑念を抱かなくなります。
この思い込み(←あえてこう書きます)が軋轢を生みます。
思い込みという色眼鏡で見ている世界は、その思い込みにより歪んで見えて、
都合の良いものは都合良く、都合の悪いものは蓋をする状況を作り上げます。
視野角が極端に狭くなってしまう、という状況です。
支持者と批判者との対立の構図なんてSNSでもさんざん見ますけど、
どっちもどっちだよなぁ、というのが私の個人的な思いです。
どちらも適度に歪んでるし、適度に思い込みが激しいんだよなぁと。
前述の通り、意見一致で団結している人たちですから、
わかるわかる、の一言で気持ちが増長してしまいます。
私たちこそ正義だ、という気持ちに目覚める気持ちもわからないではありません。
「自分たちは歪んでなどいない、相手の方こそ歪んでいるのだ」という思い込みがそこで起こります。
で、ある種の宗教的カルト集団がここに誕生します。
その信者たちは盲目的に自分たちの正義を崇め奉ります。
そして、反対するものに対して脊髄反射にも似た形で反駁を繰り返します。
隙あらば自分の集団を大きくしようとします。
正義という大波に飲み込まれて意見を翻してしまう人も少なくはないでしょう。
昔、中学校の頃お世話になった担任がいました。中学3年の頃です。
阪神淡路大震災の被害にあって亡くなってしまったんですけど、
その恩師がこんな言葉を当時の私に言ったんです。
「いろいろ思い込むのは自由やけど、それは本人だけのもんやで」
これを聞いた当時、中学生だった私の頭の中に??が浮かんでいたとは思うんですが、
いざ自分が社会に出てみると、この言葉にうなずくことがとても多くなりました。
それで思ったのは、正義って思いこみの一過程なんだということです。
100人いれば100通りの正義があって、
その正義に基づいた行動原理が働いているんです。
小さいものでは、某お菓子の「山と里論争」がそうですし、
大きなものでは、政府批判派と政府賛美派だったりします。
つまるところ「白か黒か」という意見に集約されるんでしょう。
100通りの正義もよくよく見てみるとこの2つに分類されてしまうんでしょうね。
身も心も白あるいは黒っていう人も当然いらっしゃいますけど、
中には、「限りなくグレーに近い黒あるいは白」って人もいれば、
「本当は黒なんだけど、周りがみんな白だから私も白にしとこう」って人もいます。
難しいのは外面(そとづら)だけではその判断が出来ないということです。
相手の心をある程度読むことが出来る、
自称メンタリストや自称超能力者でもない限りは、
相手の言動や表情などで推し量るしかないわけです。
見るからに挙動不審な人だからといってその人が黒であるわけでもないですし、
外見が恰好良いな人だからその人が白であるわけでもないです。
ましてや、文字や画像だけの行き来しかないSNSではなおさらです。
相手の性別や年齢すら判然としないのに、
その文字やら画像だけで対象者のひととなりまで断罪するというのは、
考え方以前に、人としてどうなんだろうと思うこともしばしばです。
そうなってしまうのも、きっと前述した正義の「ゆがみ」に起因するのでしょうね。
こういうのがあるので、ほとんどSNSを見なくなりました。
検索すれば、自分が飛びつきたくなるような意見もありますし、
反吐が出そうなほど嫌なことを書いている人もいます。
上手に付き合えば有用なツールの一つとなり得るんでしょうけど、
私の場合は「清濁併せ呑む」ことが出来ない人間なので、
精神衛生上のことも考えて、必要な時にしか見なくなってしまいました。
自分の持っている意見と違ったものだとしてもそれを受容してしまいますし、
そうして受容してしまう自分自身に嫌気がさしてしまうんです。
要するに、SNSに不向きな性格なんです(笑)
実は人見知りしてしまう性格ですし、
それを隠そうとしてわざと人前でピエロを演じてごまかしたり、
自己分析してみても、そうしたツールには不向きな性格です。
少しテーマからお話が離れてしまいました。
正義とかそういうのって曖昧で、危ないものだから、
なるだけ危険なものには近づかないようにしています。
どうしても正義の鉄槌を当人や当人に近しい人たちに伝えようとして、
いわゆる「クソリプ」を贈呈する麗しい方もいらっしゃいますが、
そういうのも見たら即時撤退することにしています。
一時期、そういうめんどくさい意見を見まくったこともありましたが、
Twitterでひょんなことがきっかけで、自分がそういう意見を浴びせられて、
精神的にやられてしまったことがあります。
なので、すでにアカウントも2回変えてしまってます・・・
自分が正しいと思いはじめてきたら、自分を心配しろというのは、
たぶん前述の中学時代の恩師の言葉に通じるものがあるような気がします。
あの言葉が無ければ、今のような性格にはきっとならなかったと思いますし、
きっとこれからも、正義という言葉に違和感を抱き続けるでしょう。
やっぱり違和感だと生ぬるいですね。
嫌悪感と修正しておきます。
長くなりましたけど、こんな感じでいかがでしょう。
自戒の意味も込めて、このブログをUPしました。