音楽つれづれ日記

音楽好き、飽き性、そして中庸思考。

「知る」をしる

ここのところずっと同じようなニュースが続いてて、

新型なんちゃらという言葉が食傷気味です。

 

私自身ひきこもりができない性質なので、

散歩とか買い物とか外に出ようとするんだと思いますが・・・

もちろん必要最低限の、という条件付きです。

 

 

新聞ラックが会社の休憩室にあって、

そこには大手新聞社の新聞がだいたいすべて吊り下げられています。

なので、新聞は毎日ずっと読んでます。

新聞社によって意見が違うのは情報社会では健康の証でもあるんでしょうけど、

手広くいろんな新聞を読んでいるのならまだしも、

1つの新聞のみを読み続けるのは、結構危険だなと思ってます。

 

 

情報は多角的に、分析は多面的に。

 

私の高校時代の先生が良く口にしていた言葉です。

先生の専攻は化学だったんですが、私の担任でもあったので、

問題児だった私はことあるごとに職員室に呼ばれていました。

いい意味で可愛がられていた、というのは今ならわかりますけど、

当時の私はその可愛がられ方に嫌悪感を抱いていました。

そんな先生が、私と対する時によく話してくれた言葉が、上の言葉です。

 

「正面から見ると球形に見えるけれど、

ほんの少し横にずれて眺めてみると丸い球体ではなく、

金太郎飴みたいな長い棒状のものであることが多い。

つまりは見る方向を変えることで提示された情報が違って見えてくる」

 

と、高校時代の担任の先生は口を酸っぱくして言ってくれました。

それは「正しいか間違っているか」ということだけでなく、

「その情報が自分にとって有益かそうではないか」であり、

情報の取捨選択は送る側ではなく受け取る側にこそあるということだそうです。

おかげさまで、この年齢になっても一つの考えに固執することなく、

多角的に情報をとらえることが当たり前となってしまいました。

正否のみにこだわらず、また、正誤のみにもこだわらない、

なんとも不可解な性格が生まれてしまったわけですけど(笑)

 

情報を得ることが比較的容易になりつつあるこの時代ですら、

デマに誘発されパニックに陥り、

手のひらで踊り続ける人がわんさかいらっしゃいます。

 

かくいう私も、いつのまにか踊っている可能性もあるわけですが・・・

 

飛びつきたくなる情報の真偽すら確かめようとしないで、

鵜呑みにし、拡散、そして病原菌のように遍く広がり続けていきます。

その情報の源がどこからなのか確認すらしようとせず、

都合の良い記事は鵜呑みにして共有し、

都合の悪い記事は送り手が恣意的に情報を操作しているという妄想に抱かれる。

妄想が個人の中で暴走するならまだしも、

暴走した妄想を、さも真実であるかのように垂れ流してしまう。

妄想が共感を生み、共感が膨れ上がって事実にすり替わろうとします。

 

こういう状態だとなかなか正確な情報を知ることは難しいと考えます。

「結果ありき」で考えてしまいがちな方というのは、

鵜呑みと妄想を繰り返す癖をお持ちな方が結構いらっしゃるように見受けられます。

 

 

情報を「見る」のと「知る」のとでは大きな隔たりがあります。

 

 

自分の欲している情報に対して警戒が少ないのもそうですし、

自分の欲していない情報に対して疑念を抱き続けるのもそうですけど、

そうした人って「知る」ことを部分的に放棄しているように思うんですよ。

 

メディアが悪い、マスコミがひどい、っていうのはSNS上でも散見されますし、

そう言いまくっている人が、共感する情報が出現すると我先にと飛びつく傾向が高いような印象があります。

それが悪いというのでないんですけど、自己矛盾を抱えているということに気づかない方って割といらっしゃいます。

それがその人にとっての正義、と言ってしまえばそれで終わりなんですけど、

やっぱり正義は疑うべきものであるべきだと私は考えちゃうんですよね。

以前にも書いたと思うんですけど、

「自分が正しいと思い始めたら自分を心配しろ」というのは、

ある意味では真理だなと思うんですよ。

 

参考文献:

hw480401.hatenablog.com

 

 

ただまあ、こういうことをいうと怒られそうですけど、

いくら声高にSNSで正義を叫んだところで、その声が届く範囲って限定的なんです。

自分の意見に共感し、理解し、同じ朋友だと思う人がたくさんいるのだとしても、

それは「井の中の蛙」なんですよ。

プロパガンダ(思想宣伝)を意識的に、あるいは無意識に行っている方は、

やっぱり同調されると鼻が高くなってくるんでしょうし、

自分の意見に自信を持ってしまう傾向が高いんだと思います。

「私の周りには同じ考えの人がたくさんいる」なんて豪語する人がいますけど、

それってリアル社会でのことじゃなくて、

Twitterをはじめとした閉鎖的社会での『私の周り』だったりします。

そりゃそうです、自分のお気に入りの人しか侍らせないんですから、

意見が一致しないほうが難しいはずですよね。

嫌なことばっかり言ってくる人は、報告なりブロックなりして意見が見えないようにしてしまえばいいわけですから。

 

でも、そうした閉鎖社会で、いくら人を扇動したり鼓舞したりできても、

結局大きな意味で変化ってそれほど多くないと思います。

井の中の蛙がいかにして大海を知ろうとすればいいのかって、

結局は「知る」を知ることが一番近道なのだろうなと思っています。

 

イデオロギー(社会思想傾向)というのは、

その人の社会的立場に大きく左右されるものです。

富裕層かそうでないか、あるいは指導者かそうでないか。

愛国者なのかそうでないか、日本人なのかそうでないか。

立場はそれぞれ違えど、ひとしく情報を知る権利はあります。

自ら情報を取りに向かうか、受動的に情報を待つかの違いはありますが、

それでも一定量の情報を知ることが出来るはずです。

ただ、そこにイデオロギーという魔法をかけてしまうと、

途端にその情報は過度なメイクが施された、禍々しいものへ変化します。

 

「情報が操作されているかもしれない」

「この情報のソースは信憑性に乏しい」

信じたくない情報を目にすると、人はそれを拒否しようとします。

あらゆる拒否事由を想定し、自分を納得させようとします。

つまりは、すでに本人の中で確固たる正解(という想像)が用意されていて、

その正解に程遠いものが出てくるとそれをはねのけようとします。

その人にとっての正解(という妄想)に近しい意見が出てくると賛同して、

仲間を得たかのように意気揚々とその意見をひけらかします。

 

そういう人たちって反対派の意見に耳を貸さない方がたくさんいらっしゃるようです。

その人をブロックしたり、揶揄して追い払ったりすることが多いわけで。

「この人には何を言っても無駄」と思うのは、

前述の「正解がすでにその人の中にある」というのが大前提です。

私なんかから見たらどちらも気持ち悪いし近づきたくない存在です。

だったらトレンドとか検索して見なきゃいいんですけど、

見てしまうんですよね、これが(笑)

 

 

こうして書いてみて思ったんですけど、

自分の正義を信じ切っていて、何言っても正しいんだから問題ない、

って思っている人って実のところはそれほど多くないんだろうなぁと。

一部、気色の悪い輩が声高に妄執ともいえる叫びをしていることはありますが(笑)

 

ただ、そうして声高に文字で叫んでいるのって、

言い方が少しアレですけど、滑稽に見えてくるんです。

SNSって拡散力はあるんでしょうけど、社会への影響度はそれほどでもないですから。

そうした自ら掲げる「偏った正義」の支持層には確実に届いてるんでしょうけど、

いわゆる私みたいな中庸層だったり、無関心な人たちから見ると、

「何をそんな必死になってんだ」ってな感じです。

少なくともSNSなどで「知る」ことってほとんどないです。

個人的見解を分析するには、多少は有用かもしれませんけど、

そこから何を分析したところで、結局はイデオロギーのぶつかり合いですから。

「ああ、またなんか言ってんなぁ」くらいの気持ちで、

ほんのちょっと流し見する程度にとどめておくのが一番健康的です。

 

ちょっと本題からそれたので戻します。

 

 

ネットニュースも新聞も、どちらかと言えば中立とは遠いところにいます。

賛成派と反対派が入り乱れて、双方で冷戦状態が続いているような感じですかね。

冷戦ではないかもしれませんけど・・・

 

新聞や雑誌、あるいはネット記事などは、

すべて個人、あるいは特定の思想に基づいて書かれていることがほとんどです。

個人が文章を書いていて、それらを統括する人が君臨している以上、

そこに中立的な意見というのはほぼ存在しません。

意図的であるか否かを問わず、報道とはそういうところだと私は考えます。

そこから情報を鵜呑みにしてしまうと困ったことになります。

かといってすべてを疑ってしまうと何も得られるものはありません。

 

物事を「知る」というのは、射幸的な見出しだけを見ることではなく、

巧妙に紛れ込んでいる事実を認識することだと思っています。

記事を書いた記者の個人的な思いや意見を躊躇なく切り捨てて、

そこから情報のエッセンスを抽出して、事実を確認する。

意図的な誘導や恣意的な意見などは出来るだけ切り捨てていくことが必要です。

一方向から見ただけでは情報は正確にはとらえきれません。

煽情的な文言はそれだけでとても魅力的に映るものですが、

そこにばかり気を取られていると足元をすくわれかねません。

読書感想文でしたらそれでもOKではあるんですけど、

「知る」というのは、垂れ流された感想を見ることではありません。

 

じゃあ、「知る」とはどういうことなのでしょう。

 

予想に反して少し哲学的になってきましたが(笑)

 

私は「常に問い続ける」ことだと思っています。

プロパガンダとして批判や賛美をするのもその人たちの自由ではありますが、

優位性を誇示して居丈高になるのも、確かに快感ではあるんでしょうけれど、

その優位性が実は薄氷である可能性も考慮しなければなりません。

得意満面で君臨し続けているところが果たして安定したところなのかどうか、

それを自ら問い続けてみるのも一つの方法として有効なのかもしれないです。

 

読書感想文や本のレビューだけを読んでも、その本を読んだことにはならないように。

人が実況しているゲーム動画を見て、

そのゲームをプレイしたのと同じであると断定することが難しいように。

口コミやレビューなど、会ったこともない人の感想を鵜呑みにしてしまうよりも、

自分で実際に見たり聞いたり触ったりしたことの方が信頼度は高いですよね。

昔の人はいいことを言っています。

曰く「百聞は一見に如かず」と。

 

こんな時世だから、どうしてもストレスフルになり、

その感情を全方向に爆発させたくなる気持ちもわからなくはないです。

ああ、今自分は直情的になってる、と自覚したら少し深呼吸してみてください。

汚い言葉で相手を罵ったり、敬称略でだれかを非難したり、

自分のやっていることを一歩、いや半歩下がって見てみると、

もしかしたら、なにかが見えてくるかもしれません。

いや、保証は出来ないんですけど・・・

 

最後までまとまりのないブログでしたが、

なんとなく伝えたいことは伝えられたような気がします。

錯覚かもしれませんけどね(笑)