音楽つれづれ日記

音楽好き、飽き性、そして中庸思考。

現代音楽を聞く その81

入野義朗さんというと、

黛敏郎さんや諸井誠さんらとともに現代音楽の旗手として、

20世紀音楽研究所なるものを組織して作曲活動をされた方です。

例にもれず、私も学生時代に入野さんの曲は聞きました。

日本人で最初に十二音技法を用いて作曲をした最初の人と言われており、

そういう意味でも日本の現代音楽界で重要な人物の一人です。

 

まあ、そういう解説はどうでもいいんですけど(笑)

 

 

私が持っているのはこのCDです。

弦楽三重奏に焦点を絞ったアルバムなんですが、

今では手に入れるのがかなり難しいものとなっているようです。

 

買っといてよかった(笑)

 

現代を代表する3人の作曲家による三重奏曲と、

なぜか「八木節」のTrio編曲バージョンまで収録されているお得なアルバムです。

 

入野さんの弦楽三重奏曲ですが、

かなり緻密に作られている楽曲ではあるのですが、

現代音楽としては割と聴きやすい部類に入るような気がしなくもないです。

あくまでも個人的な所感ですけども。

いきなりこのアルバムから入る人はほとんどいないと思いますけどね・・・

イヤフォンとわたし

通勤中に音楽を聞かなくなりました。

 

電車の中で本を読むことが多いんですが、

読書している時には、音楽があったほうが良いんです。

で、イヤフォンで聞くことが多かったんですけど、

いろいろあってイヤフォンで音楽を聞かなくなったんです。

 

そのきっかけは、とあるコンサートに行ったときに起こりました。

今年のことです。

コンサート終わりにアンコール演目を撮影していると、

お淑やかなご婦人が話しかけてきたんです。

スマホのカメラ機能で撮影していたので、それが珍しかったのでしょう、

そのご婦人からスマホについてあれやこれやと質問攻めにされました。

 

で、ふとそのご婦人の耳元を見てみると補聴器が。

ちょっと気になったのでその話題をしてみると、

「昔耳の手術をして、両耳が聞こえなくなったんです」

「片耳は何とか補聴器で聞こえますが、もう片方は全く聞こえません」

「普通に聞こえる人より聴力は弱いですが、音楽が好きなので・・・」

私が話題を振らなくてもそのご婦人は、のべつ幕無しにお話をされました。

 

私はこういう経験を良くします。

知らない人に声をかけられることが、

特に、見ず知らずの年配の男女に声をかけられることが割と多いんです。

あと、変な人にリアルでもネット上でも絡まれることも若干確率高めです(笑)

 

で、その補聴器のご婦人が私に尋ねてきたんです。

「あなた、イヤフォンとかで音楽とかお聞きになる?」

「ええ、音量は控えめにしてますけど、通勤時によく聞いてます」

「それだめ!絶対ダメ!イヤフォンで音楽を聞くのはおやめになるべきよ」

突然、テンションと声量をレベルアップしました。

どうやらそのご婦人が耳の手術をしたきっかけの一つが、

普段からイヤフォンで音楽を聞いていたことだったんだそうです。

「まだお若いんだから、自分で音楽の世界を狭めてしまうようなことはやめた方が良いですよ」

 

 

テレビや雑誌などでも、そうしたことを良く見聞きします。

カナル型イヤフォンだけではなく、耳元で音楽を聞くという行為が、

実は耳の自殺行為と同等であることもわかってはいました。

ただ、「私には関係ないか」とも正直思っていたんです。

 

 

もともと私の片耳の聴力は学生時代の病で常人の7割ほどになってます。

三半規管をそのころにやられたので、お喋りも常人の7割ほどの滑舌です(笑)

でも、もう片方は普通なので、音量バランスさえ変えれば、

普通に音楽を楽しむことが出来るんです。

そんな私ですが、年齢を重ねるごとに聴力の低下を感じるようになりました。

 

そんな状況の頃にそのご婦人に出会ったんです。

「自ら音楽の世界を狭める」という言葉に衝撃を受けました。

その行為を自ら実践させられた人から発せられたので説得力があり、

そして私自身が「音楽大好きっ子」ということもあいまって、

その時の私は「じゃ、これからイヤフォンで聞くのやめます」と言ってました。

 

単純ですよね(笑)

 

 

電車で音漏れするくらい大音量で音楽を聞いている人を見かけます。

そのうちの何割かは難聴になることがあるんだそうです。

100%なのかどうかはわかりませんが、高確率で聴力が落ちていくみたいです。

最悪の場合は聴力を失ってしまうことも可能性としてあるのだとも。

 

何かの雑誌で読んだと記憶していますが、

イヤフォンで音楽を聞くことそれ自体が耳にダメージを与えている行為となり、

一日1時間以上聞き続けていると失聴の確率も大幅に上がるのだとか。

その情報が正しいのか誤っているのかは個人的に判断しかねますが、

上述のご婦人のような具体例もありますし、

これからも健康的に音楽を聞き続けていきたいので、

「単純な奴」と思われようが、今後はイヤフォンで音楽等を聴かないようにしました。

 

家にいるときもスピーカーで聞くようになりましたし、

テレビなどの音も、密閉型のヘッドホンではなく、

肩掛け型のスピーカーなどで、少しでも耳に負担のかからない方法にしました。

今更感ももちろんあるにはありますけど(笑)

 

ただ、音漏れするくらいに大音量で音楽を聞いている人を見るたびに、

「ご愁傷様です」と思うようになってきたのは、

良い傾向なのか悪い傾向なのか定かではありませんが、

いきなり習慣化していたものをゼロにするというのはなかなかしんどいです。

電車で読書している時も「ああ、音楽欲しい」と思いますし、

きっと根負けしてイヤフォンをまた使い始める可能性もあります。

意志薄弱なので・・・

でも、耳の健康は今後もずっと考えていかなければならないことですし、

少しでも音楽と戯れる時間が多くなればな、とも思います。

 

 

なんだか学生の感想文みたいなタイトルと文章になりましたけど、

なんとなくモヤモヤしていたことを形にできたので、まあいいでしょ(笑)

Incidental Music Vol.74

「マチネの終わりに」の映画を見に行ったのは、

別の映画を見に行ったとき予告編で気になったからです。

主演が福山雅治さんと石田ゆり子さんってのも面白そうだなって思ったし、

実は原作も以前読んでいたので、どんなもんかと思ってみました。

まあ、原作ものの映画化にはよくありますけど、

もうちょっと掘り下げてほしいところもありましたが、

2時間強にしてはよくまとまっていたなぁと。

 

あ、映画の感想じゃなかったですね(笑)

 

映画「マチネの終わりに」オリジナル・サウンドトラック

映画「マチネの終わりに」オリジナル・サウンドトラック

 

 

映画を見終わったら、サントラは大体買うようにしているんですが、

今回は映画を見る前に売店で買いました。

どうやら人気のあるサントラみたいだったので。

 

主人公がギタリストという役どころもあってか、

全編がギターサウンドで彩られています。

サントラにはバッハの無伴奏チェロ組曲なんかも入ってましたね。

あ、もちろんチェロじゃなくてギターVer.ですけど。

聞き慣れた楽曲でも、楽器が変わると新鮮に聞こえます。

 

音楽を担当されたのは菅野祐悟さんです。

真っ先に思い浮かべるのは大河ドラマ軍師官兵衛」ですけど、

Gのレコンギスタ」や「PSYCHO-PASS」シリーズなどのアニメとか、

「半分、青い」や「ガリレオ」などのテレビドラマなど、

幅広く活躍されている音楽家です。私もサントラたくさん持ってます(笑)

この映画でも思いましたが、本当に引き出しがたくさんある方だなぁと。

だからこそ、今でもこうして活躍されているわけですけども。

 

ほんと、いいサントラなのでぜひ。

あ、サブスク(SpotifyAmazon Musicなど)でも聞けます。

 

編曲と品格

ブログのタイトルは大仰ですけど、内容は薄いと思います(笑)

 

 

編曲の定義ってものすごく難しいと思うんですが、

誤解を恐れずに言うと「作曲家の作ったものを装飾する」作業になります。

歌の伴奏付けはもちろんのこと、前奏や間奏、後奏などなど、

作曲家の作ったものを膨らませ、あるいは裏切りつつ、

なるだけ意に沿った、あるいは沿わないものを作る作業になります。

 

私の場合は、フルオケ(もどき)のものからアイドルソング調なものまで、

割と広範囲で編曲を施すことが多かったんですが、

作曲家が選んだ和音などを忠実に再現する場合と、

私の独断と偏見と感性で思いのままにやる場合と、

お偉い人たちの意向に沿った形で自分を殺して編み込む場合と、

いろんなパターンで編曲作業をやっております。

 

私自身はメロディメーカーというわけではないので、

(伴奏に使う旋律とかイントロとかでメロディを作ることは多いんですけど)

まずは作曲した人のメロディを最大限いかすようにします。

どういった方向性でいくのかというのは、

作り手の意向とかお金を出している方々の思惑など、いろんな要素をはらんでいます。

特に、企業やお偉いさんの思惑というのが本当にめんどくさかったので、

私がプロとして大成できなかった理由の一つなのかなと思ってます。

 

 

私の話はおいておいて・・・

 

 

ゼロから作る楽曲を編曲する場合はこんな感じなんですが、

例えばすでに商業的に浸透している音楽を編曲する場合は、

それはそれでいろいろと気をつかうことが圧倒的に多いんです。

 

SNSとかで既成曲をピアノアレンジで演奏したりRemixしたりする動画があって、

著作権的にどうなのよ、とか、

曲を作った人がそうした動画を見てどう思うか想像しているんだろうか、とか、

そういうことを考えたり考えなかったりしますが、それはさておき。

(この話はいずれちゃんと書きたいと思ってますけど)

 

 

原曲のあるものを再編曲(リアレンジ)する場合、

原曲にどれだけ寄せるべきなのか、

あるいはどれだけ原曲を裏切るべきなのか、というのがあったりします。

自分自身はジャズから音楽にどっぷり入った人間なので、

アドリブとか即興的なものに憧れに似たものを感じることが多いです。

だから、そうしたリアレンジものを聞く場合には、

どれだけ原曲を裏切ってくれるのか、というのを期待します。

と同時に、原曲にリスペクトを感じないものも中にはあるので、

そうしたものについては、アレンジの妙を楽しむと同時に、

裏切られた思いを同時に感じることがあります。

 

「なんで、この旋律を省いてるんだろう」

「いやいや、ここで終わるんだ。編曲した人絶対リスペクトしてないよね」

といった思いを、原曲が好きな人たちが抱くことは往々にしてあると聞きます。

そうしたアレンジに嫌悪感めいたものを抱く気持ちもわかります。

ただ、そういうアレンジになってしまった裏面の事情ってのもあるんですよ。

私の中では、そうした感情的な思いと俯瞰的な思いが同時に交錯します。

 

時間と曲目だけざっくりと提示されて「あとはよろしく」という感じなのか、

それともその編曲自体、編曲者の考えを十二分に表したものなのか、

そのあたりは想像で補完するしか術が無いんですが、

モヤモヤした思いや残念な気持ちを抱く人も多いんだろうなと思うんです。

 

そうしたモヤモヤした思いを共有したい気持ちは私にもありますが、

お客さんがたくさんたむろしているところで声高に言うのは少しはばかられます。

不平不満を持つ人もいるのと同様に、演奏に感動した人も多くいらっしゃいます。

マウントを取りたいというわけでもないでしょうし、

そうした不満を少しでも早く共有したいという思いが強いんでしょうけど、

そういうのは会場を出た後で個人的にやった方が良いんだろうな、とも思いました。

 

品格、という言葉があります。

私自身大嫌いな言葉の一つではあるのですが、あえてここで使わせていただきます。

 

編曲者に品格は必要なのか、と以前聞かれたことがあります。

残念ながら、今は品格至上主義の傾向が少し強いように感じられます。

品行方正な音楽家の方が、素行の悪い音楽家よりも好まれるという傾向です。

人格破綻している品格のない人間が、天使のようなメロディを作ったとしても、

すでにレッテルを貼られてしまっている音楽家は忌み嫌われることが多いんです。

そしてあまつさえ、その忌み嫌う感情が作品にまで派生します。

 

良い音楽をつくるのだから、品格も必要であるという論調に対して、

音楽に品性は必要ではない、と常日頃から思っている私にとって、

品格という言葉それ自体が邪魔者以外の何ものでもありません。

 

かたや、鑑賞者に品格は必要か、と問われると、

それはある程度必要なのかもしれません、と今なら応えるでしょう。

心のアルバムという言葉がスマホの登場により露と消え、

全ての思い出はスマホのカメラを通して残すべきだという怨念にとらわれ、

ところ構わずシャッターを切る姿は、私から見るとかなり滑稽です。

撮影禁止とアナウンスされているところや、

あるいは撮影禁止ではないにしてもそうした行為が憚られるようなところで、

何も考えず、思い出をうつしとりたい衝動に抗うこともなく、

ただただスマホを構えて写真を撮る姿は、

品格うんぬんというよりもその人の品性を疑ってしまいます。

撮影することで満足して、SNSにその写真をUPして、

あとはスマホのメモリの肥やしになるだけなんでしょうけど・・・

 

 

おっと、また話が脱線してしまった・・・

 

 

音楽というのはとても奥が深いものです。

それは作詞、作曲だけでなく、編曲にも大いに当てはまります。

共同作業で協力しながら作品を作り上げることもありますが、

作業自体は非常に孤独なものです。めげそうになることもあります。

若い時はそうした気持ちを熱意でカバーできることもあるのでしょうが、

熱意は無尽蔵というわけではありません。ずっと上がりっぱなしではないんです。

それに気づいたのは、私がすでにフリーランスに両足を浸しきった頃ですけど(笑)

品格も品性も乏しい私ではありますが、

それでもこうして細々と音楽活動を続けていられるのは、

やっぱり人脈と信頼なのだろうな、と改めて思います。

 

なんだか脈絡のない薄っぺらいブログになりましたが、

言いたいこと、書きたいことは書けたので、これでよしとします。

 

 

 

Cecil Taylor Unit / Akisakila【ジャズのススメ 124】

セシル・テイラーのことは以前書いた記憶はないんですが、もし書いてたらすいません。

前回の「ジャズのススメ」を書いてた時に、頭の中で鳴っていたのはこのアルバムだったんですよ。理由はよくわかりませんけど。

 

hw480401.hatenablog.com

↑前回のやつです

 

彼のピアノはエキセントリックで難解という意見があるみたいですけど、

技術と知識に裏打ちされたそのピアノは、やっぱりすごみがあります。

よく聞いてるのはこのアルバムじゃなく「Solo」の方なんですけど(笑)

 

Akisakila - Cecil Taylor Unit In Japan -

Akisakila - Cecil Taylor Unit In Japan -

 

 

今ならAmazon Prime会員であれば、Prime Musicで全曲聞くことが出来ます。

前衛的で敬遠されがちなアルバムかもしれませんけど、

するめのように、噛めば噛むほど味が出る、そんな一枚だと私は思ってます。

ブラスぷらす Op.15

ロジャー・ニクソンといえば、私などは最初室内楽作品から入ったので、

未だに吹奏楽の人という印象は持ちえないんですけど、

それでもかなりの吹奏楽曲を手掛けているのも事実なので、

やはりこちらで紹介するべきだろうと思いました。

 

で、彼というと「Fiesta del Pacifico(太平洋の祭り)」になるんでしょうか。

日本でも結構演奏されているようですし、知名度は高いと思います。

 

Fiesta del Pacifico

Fiesta del Pacifico

  • アーティスト: University of North Texas Wind Ensemble
  • 出版社/メーカー: Mark Records
  • 発売日: 2019/08/09
  • メディア: MP3 ダウンロード
  • この商品を含むブログを見る
 

 

この曲も変拍子がそこかしこに出てきます。

パーカッションもとても活躍する名曲ですね。リズムが重要な曲なので。

ラテン的なノリが曲全体を支配しつつ、

どことなくユーモラスな印象もぬぐい切れない、そんな一曲です。

現代音楽を聞く その80

フィンランドの現代音楽家といえば、

今ならカイヤ・サーリアホを挙げる人が多いと思います。

私が彼女の音楽と接したのはずいぶん昔でしたが、

近年でも作品を精力的に作り続けており、私も目が離せない作曲家の一人です。

 

カイヤ・サーリアホの個展

カイヤ・サーリアホの個展

 

 

彼女の作品で最初に聞いたのは「光の弧(Lichtbogen)」だったはずです。

彼女の作品では、フルートを巧みに使った曲が多いんですけど、

電子楽器とフルート、あるいはピアノや弦楽とのコラボレーションは、

独特の緊迫感をあおりながらも、どこか繊細で優美な印象も受けます。

 

「眩惑(Verblendungen)」「花弁(Petals)」「静物画(Stilleben)」など、

このアルバムには多種な音楽が収録されています。

まあ、最近はあまり聞いてなかったんですけど(笑)

 

日本でも演奏される機会が割とあるみたいなので、

一度は生で聞いてみたいものです。