スポットライト症候群という病があります。
常に皆からの注目を浴びていないではいられない症状を指します。
様々な人からの注目を集める芸能人やスポーツ選手などに多いのだとか。
まあ、そのあたりは、
ちゃんとした統計があまり出ていないので断言できないんですけどね。
全人類総評論家時代みたいなものがやってきたことで、
気軽に情報をネットを通して発信することが出来るようになりました。
公式のゲーム機器メーカーのアカウントに、
今人気のゲーム機がなかなか手に入らないことに憤って、
「はやくゲーム機器作れ」とか「だからおまえんとこはダメなんだ」と、
まるで友人以下の存在のごとくこき下ろしたり、
かと思えばその公式アカウントに全く関係のない話題を振ってみたり、
(わざとライバル会社の製品名をそのまま送るなどの行為)
そうした「大喜利」的なコメントをして自己満足している方が結構多くいらっしゃいます。
公式アカウント側でそういうのはほぼ無反応なんですけどね。
無反応であるのを良いことに、好き勝手やっているという印象です。
このあたりはネットリテラシーの範疇の話なので私の意見は省きますけど、
あれですね、見てて気持ちのいいものじゃないです。
まあ見ないですけど(笑)。
と、ここまで書いておいてなんですけど、
今回のテーマは「スポットライト症候群」ではありません。
ただ、今回のお話と少し関連するところもあるので先に書いてみました。
「スポットライト思考」という題名にしましたが、
たぶんこんな言葉はないと思います。造語です。
(あったらすいません・・・)
まずは例として小説をあげてみます。
歴史小説を読んでいるとします。
そこで少しエロ要素のあるシーンが出てくるとしましょう。
そしてそのエロ要素のある文章だけを抜き出して、
悪意ある人がSNSなどに投稿したとしたらどうでしょうか。
そりゃエロ要素のある文章しか載せていないわけですから、
印象としては「エロい」ということになります。
しかし、その要素は件の歴史小説のほんの一部なんです。
ただその一部のみを切り取られることによって、
さも作品全体の印象であるかのような錯覚を強いられます。
と、このように、
スポットライトを当てるかのように意図的、作為的に切り取った話題を提供する、
あるいは意図的、作為的に切り取ることで印象を操作することによって、
情報を見たものに誤った印象を植え付けるといった行為。
もしくは、自分の都合の良い情報だけを信じこみ、それ以外は信じない、
例えるなら、周囲に明かりが当たらず、
ただ信じたい情報のみをスポットライトのごとく浮かび上がらせるような思考を、
「スポットライト思考」と私は呼んでいません(笑)。
まあでも他に適当な言葉も浮かばないので、
便宜上「スポットライト思考」と定義します。
話す、というのは言葉の連続です。
それ自体に意味がない言葉、それ自体だけでも意味を持つ言葉、
そういった単語を頭のなかで組み立てて人前で披露することではじめて、
「話す」という言葉が定義付けされます。
とまあ、こうして改めて定義してみると、
言葉をかわす、話すという行為がとてもいとおしく思えてくるから不思議なものです。
もともと私自身、人と話をすることは大好きなんですけどね。
ま、それはともかく。
自分の意見に与する人、その反対に自分の意見に与せず反対している人。
ある一つの事象に対しては、たいていこの2つに分かれることが多いです。
○か×か、正か否か、適当か不適当か、賛成か反対か。
相反する2つの意見は当然ながらぶつかることになります。
自分の嫌いな人が何かの講演をしていて、冗談で軽はずみなことを言ったとします。
するとその人は、嫌いな人の悪評をもっと広めてやろうと、
その冗談のみを切り取ろうと画策します。
その軽はずみで言った冗談のみを執拗に喧伝し、
その人が極悪非道な人間であるかのように印象操作し、世間に知らしめようとします。
こうした行為に至るまでには様々な経緯があるとは思うんですけど、
結局は「そいつが嫌いだから」という理由なんだろうな、と思います。
(その感情へ至るまでのプロセスは人それぞれ違うと思いますけど)
当然この講演に出席していない人からすると、
この喧伝した人の情報しか基本的に得られないわけですから、
何も知らないとすると、その人への心象は確実に悪くなるわけです。
そうすることで、その人の「嫌い」という感情が伝播していくことになります。
そうして、私は学生時代に嫌われたことがあります。
私が冗談で言ったことが、どんどん姿かたちを変え、大きくなり、
膨らみ続け、そしてはじけ飛びました。
噂はすでに事実とは異なる状態で独り歩きを始め、
いくら私が弁解しようとも、受け入れられることはありませんでした。
そんな状態が半年くらい続いたんです。流石にそのときは本当に辛かったですね。
厭世的になっていたのも仕方がないことです。
「弁解しようとしたお前が悪い」
「そもそもそういう冗談を言ったお前に否があるんじゃないの?」
といった元友人もいました。
結局、スポットライト思考にとらわれてしまうことで、
周りが見えなくなってしまって、
そのライトの範囲の大きく外にいる私に光が当たることはありませんでした。
ここ最近のニュースやテレビ番組を見ていると、
こうしたスポットライト思考をしている人が結構いることに驚きます。
自分に都合の良いニュースだけをつまみ食いして、
そのニュースの真偽をあまり確認しないで、ただ賛成や反対を垂れ流す。
(真偽なんてどうでもいい、とにかく褒めたいor叩きたいって人も含めます)
SNS上だとそうした賛成派や反対派を見つけることは比較的容易いこともあり、
そうした人たちが確固とした信念があるわけでもなく、
ただ数の暴力で、自分たちに与しない人や物を貶めようとします。
いや、信念はあるんでしょうね。「貶めてやりたい」という信念が。
こういう時代になってしまったんだな、ということに改めて恐怖を感じます。
私自身も身をもって経験したことであるから、かもしれませんけどね。
事実を捻じ曲げられ、歪められた情報のみに飛びついて、
本当の事実から目をそらす、あるいは見ているのに受け入れようとしない。
というよりも、受け入れることによってこれまでの自分が否定されることになり、
受け入れられなくなってしまっているのかもしれません。
スポットライト思考って怖いよなぁ、と思います。
かくいう私もそうした思考にとらわれていない、とも断言できません。
こういう考え方こそ「スポットライト思考」じゃないの、
と言われると強く否定することはたぶんできないと思います。
(受け入れる、受け入れないは別として)
だからこそ、こうして自分を戒める意味でもこういう記事を書くのは、
少なくとも自分にとっては有意義なのだろうな、とも思うんですよ。
・・・まあ、これも一種の自己満足、なんでしょうけど。