想像力の欠如、という言葉を耳にします。
人の行動理念のひとつとして、
想像力というものが重要な事は広く知られていると思うのですが、
いろいろな事象を鑑みるに、想像力の働いた余地が無いものが多くなっています。
親が子供を死なせる事件がニュースになることがあります。
子供を折檻するとき、親は子供に比して力も大きいわけですから、
そこで力を加減して折檻する、というのは想像力の余地が多少あると思います。
親が力を加減しないで子供に暴力をふるうとどうなるのか。
これは想像力が介入するべきところのはずです。
しかし感情が限界近くまで高ぶってしまって想像力が介入しない、
もしくはサイコパスといわれる反社会的性格の持ち主で、
子供に暴力を振るうことに対して何の躊躇いもない人にとっては、
そうした想像力が介入されず、結果としてその人は代償といわれる対価を払うことになります。
それは罪を償うという形もあれば、金銭的な代償ということもありえます。
いきなりこんな話を始めたのにはわけがあります。
先日、とある本を読了しました。伊坂幸太郎さんの「死神の浮力」という本です。
前作「死神の精度」で登場した主人公・千葉と呼ばれる死神が、
一人の人間を観察、精査してその対象を死なせるのか死なせないのかを決める、
という、とってもダークなお話です。
ダークではあるんですけど、読んでる最中はそれほどダークさを感じません。
むしろ諧謔的でさえあります。
この「死神の浮力」でもサイコパスが登場します。
そして、子供をとある事件で失った両親が出てきます。
構図としてはとても単純であるのに、話の展開が読めずグイグイと引きこまれました。
ネタばれになるのでこれ以上は語れないのですが、
本を読了した直後に2つのキーワードが頭のなかに浮かんできました。
それが「想像力」と「対価」です。
この2つの言葉が、現代の社会情勢と符合するなぁと考えたんです。
で、こうして最終的な結論すら考えずに、
ただダラダラと手がおもむくままに書いているというわけです(笑)
コンビニに行って買い物をしています。
そして自分の欲しいものを選んで、レジへと向かいます。
レジで精算をして、対価としてお金、もしくはそれに相当するものを使用して、
自分の欲しいものを手に入れます。
何かを得るためには、何かを失わなければなりません。
だから、基本プレイ無料と呼ばれるゲームでも、
ゲーム内でアイテムを購入したりする場合には金銭を払います。
ですが、人は「無料」という言葉に魅了され続けているような気がします。
配信されるゲームに限らず、
提供される娯楽に対して値段が付いていることが普通のはずなのに、
「無料じゃないのかよ」という言葉を口に出してしまう人が多いのは、
この辺りの想像力が欠如しているんだろうな、と。
スマホ等で配信されているゲームがうんだ弊害のひとつだろうとは思うのですが、
この弊害がゲーム業界自体を苦しめているのではないでしょうか。
話がゲームになってしまったので、戻します。
等価交換、という言葉がありますよね。
先に話した「何かを得るためには何かを失わなければならない」、
その得るものと失うものが客観的に等しい価値を有している、
これが等価交換の原則です。
しかし、その価値って誰が決めるんでしょう。
物の価値というのは客観的なものと主観的なものがあります。
自分が食べたお寿司が美味しいと思う時、
その美味しいという価値は、人それぞれ違うはずです。
ご飯の握り方がいい、ネタの分厚さがいい、わさびの量がちょうどいい、
といった十人十色な理由でそのお寿司の価値が決まります。
それらに一定の価値を見出すことはとても難しいはずなんです。
ああ、だから高いお寿司屋さんは「時価」なんだ、と妙に納得したりしなかったり(笑)
こうした主観的な価値の側から見てみるとそれはとてもバラバラです。
「こんなものにお金が払えるか」
「これほど美味しい寿司なのにこんな値段で提供していいのか」
といった意見を各々感じながら、その実、店側が提示している価格を支払うことになります。
最初の子供の折檻の話に戻ってみます。
たとえば、全く知らない他人が両親の目の前で子供を折檻していると仮定します。
すると、親は子供を守ろうとします。
サイコパスでもない限りそれが親としての対応であるわけです。
が、そんな親も自分の子供に対して折檻をすることがあります。
他人が折檻することは許容できないのに、自分が折檻することは許容できるわけです。
折檻を許容できるできない、というお話ではないです。
主観的な価値と客観的な価値には往々にして相違がある、ということが言いたいわけです。
暴力は悪である、というのは理解できます。
しかし、想像力を働かせて物事を考えない人は目の前の快楽しか見ていないので、
その気持ちが続く限り相手に暴力を振るったり傷つけたりします。
いじめのメカニズムってこんな短い言葉で表せられるものではないんですけど、
結局は自分の快楽を満足させることで他者に介入をする、という図式が一般的な気がします。
そして、日本人の文化のひとつ、「出る杭は打たれる」が発動します。
つまり周りと同化、あるいは迎合してしまうことを是とする文化、
何よりも「平均を重んじる文化」です。
前述の図式をあてはめてみます。
自分の快楽を満足させることで他者に介入するとき、
そのまわりにいる第三者は必要に迫られます。
「快楽を満足させる側につくか、それとも暴力を受けられている側につくか、もしくはその双方に与せず無視を決め込むか」
こういう選択肢があった場合、多くの人は多数派に属そうとします。
仲の良いあいつがそうしているのなら私もそうしよう、
あいつには何の恨みもないけど周りがそうしているから私もそうしよう、
面白そうだから私もそうしよう、
という具合に「自分が」ではなく「自分も」という考え方に支配されるわけです。
少数派になりたくない、一人になりたくないという感情にコントロールされてしまって、
早く多数派に属して安心をしたいというところにシフトししてしまうわけです。
そして快楽を求める側は、大概相手に対する想像力が著しく欠如しています。
だから相手がどう思っているかといったことに忖度しません。
自分が暴力を受ける側になることなど露ほども想像せずに、
ただ自分を満足させたいがために、彼ら彼女らは他者に介入しようとします。
まあ、私もいじめた経験もいじめられた経験もあるので、
双方の気持ちがとてもよくわかるんですけど、
やっぱり私も少年期は多数派に属して嵐が過ぎるのをただ待っていただけでした。
今は・・・中庸です(笑)
なぜiPhoneが売れるのか、というコラムがネットを賑わせていますけど、
きっと前述の日本人の文化、というよりも日本人の気質がそうさせているのでしょうね。
能動的な購入ではなく、どちらかというと受動的な理由が多いのかもしれません。
「私が」ではなく「私も」ということです。
アップル製品が好きで好きで仕方がないという人も多くいるのでしょうし、
iPhoneの性能それ自体に魅了された人もたくさんいるのでしょうけれども、
(私も昔はパソコンも含めて林檎党でした)
こうしたこだわりが強いのもまた日本人の気質のひとつなのでしょうね。
ここまで何も考えずに30分程度を費やして書いています。
以前にマナーのことをこのブログで書いたことがあります。
そこで、電車に乗っている人たちのことを話したと思うんですけど、
これも想像力の欠如している人たちだな、と。
自分が座っている横にカバン等の荷物を置いてみたりする行為。
威厳と風格を強調したいのか、股を大きく広げて座席の幅を大量に獲得している行為。
膝上に載せられるくらいのカバンなのにあえて床においてスペースを余分に使う行為。
もっと深く腰掛けられるのにその姿勢が楽なのか浅く座ってとてもだらしのない行為。
この行為一つ一つが近くにいる人達に与える苦痛のことを微塵も考えていません。
たしかにその苦痛はひとつひとつは大したことはありません。
が、電車は移動手段です。そこに長くいることになるわけで、時間とともにその苦痛は激増します。
苦痛を味わうという対価をはらっている、ということですね。
道徳や倫理の授業でも繰り返し言われるんですけど、
「相手の立場にたって行動することを心がけましょう」
「みだりに相手に迷惑をかける行為は慎みましょう」
といった教えは、結局のところ深くは浸透していない、ということになります。
あなたは想像力がたくましい方ですか?それとも・・・