音楽つれづれ日記

音楽好き、飽き性、そして中庸思考。

華麗なる加齢、寛容が肝要

私が小学生にあがったばかりの頃です。
その頃私の家は、ドアを開けたらすぐ小さな玄関とともに2階へ続く階段があり、
2階に家の機能がすべて揃っているという一風変わったところに住んでいました。
そして家風呂というものが無かったので、近くの銭湯に毎日通ってました。
父親と、時には母親と一緒に銭湯に通って知らない人と一緒に同じ湯船に入るという、
今では失われてしまいつつある義理と人情の世界がそこにはありました。
かけ湯をしないで湯船に入ろうとする小さな私に対して、
「おいこら!ちゃんとかけ湯してから入らんかい!!」
と見ず知らずのおっさんから頭ごなしに叱りつけられたことは一度や二度ではありませんでした。


他者が関わることに寛容な時代でした。


昔が良かった、とは一概に言えません。
昔よりも今のほうが良くなったことも数多くあります。
ただ、私のようなアラフォーからすると、
幼少期、そして少年時代に過ごした寛容な時代が懐かしく思われます。
感傷的になってるわけじゃないですよ。
「許される時代」が確かに存在してたということを実体験で知っている、というだけです。


言葉は悪いかもしれないですが、気持ち悪い時代になったなぁと思うんです。
許される時代から「不寛容な時代」になったことで、
他者と関わることが難しくなってきた気がします。
私の世代はそんな時代時代を大陸横断的にたくさん経験してきているんですね。
なんて書くと「昔は良かったなんてジジ臭い」と思われるんでしょう。
いいんです。すでにジジイ世代に片足突っ込んでますから(笑)。


今の人って「ほどほど」っていうのが無い気がします。
人をたたくときは徹底的にたたきますし、
怒りに身を任せて人を殺めたりすることもあります。
他者に対しては不寛容なのに、自分に対しては驚くほど寛容です。
かくいう私も、自分でも驚くほど自分に寛容です(笑)。
ただ、他者に対しても寛容であろうと努力はしています。

前のブログ記事にも書きましたけど、
好き嫌いは人の常です。生理的な感情に抗うのは難しいと思います。
ただ「外見は嫌いだけどちょっと話をしてみると共通項が多い」
ということもままあります。
最初はどうやっても外見です。それはもうどうしようもないことです。
汚い格好をしていたら、やっぱり「あ、汚い」と思いますし、
人とは違った身体的な特徴についても口には出さなくても心のなかで思ってたりします。
しかしそういうマイナスな印象も、
少しずつその人と関わっていくことで印象が180度変わることもまた事実です。
とはいえ、歳を重ねていくとそのあたりの感性が少し鈍ってきます。
だから外見ではなく内面を探ろうと努力します。少なくとも私はそうしています。

あ、ネットの話ではなくリアルの話です。


私は「逆ネット弁慶」なんです。
ネットで言いたいことを言うということに抵抗がある人です。
その反対にリアルでは割とズケズケ言います。
つまり、ネット弁慶の正反対という意味で逆ネット弁慶と自称しています。
やっぱりちゃんと相手を見て話をしたいですし、
ネットの文字だけの情報で相手を判断することはしたくないんですよね。

まあ、判断しちゃうこともあるんですけど・・・(笑)



だんだん雑談ブログみたいになってきましたけど、このまま続けますね。



Twitterとか見てると、自分の大好きなものを赤裸々に語る人がほとんどです。
そりゃそうです。
Twitterなんてそのほとんどが匿名投稿ですから、いくらでもさらけ出せます。
その感覚が私にはちょっとわからないんですよ。
これもアラフォーまで加齢してきた結果なんでしょうけども。

と、ここで私の会社のことを語らせてもらいます。

うちの部署もそういうTwitterみたいな雰囲気なんですよ。
部長が私っていうのもあってゆるゆるなんでしょうね、きっと。
だからパソコンの横に好きなゲームキャラのフィギュアとか飾ってる人もいますし、
私と同僚とでゲーム談義する時もかなりコアな話題で盛りあがることがあります。
うちの会社の専務が相当なゲーマーっていうこともあって、
そういうところが本当にユルい会社なんですよ。
これでうちの部署の業績成長率が鈍かったら問題ありなんだろうけど(笑)。
幸いなことにここ数年ずっと好調を維持させてもらっておりますm(_ _)m
私、基本的に人には甘い人なんですが、
部内ではメリハリをつけてます。甘々な時もあれば辛々な時もあります。


話がいろいろと飛んで読みにくいことこの上無いと思いますが、
頭に思いついたことをそのまま文にしているだけなので、
そのあたりのことは大目に見ていただけると。



他人の心を知れたらどれだけ楽でしょうか。
相手に合わせてこちらも言葉を選ぶことができます。
ただ、そういう人の関係ってどうなんでしょう。
相手のことばっかり考えて自分の言葉で思いを紡ぐことができない、
そんな状態が果たして幸せだといえるのでしょうか。
相手の心を知れないから、知ろうと努力します。
それでわかることなんてたかが知れてるんだけど、
それでも相手が喜んだり嬉しがったりしてる姿を見るだけで、
自分の気持ちが少しほっこりすると思うんですよね。

だから相手に対して寛容になるっていうことって肝要だなと。
もちろんそれだけでは駄目ってことももちろんわかってます。
歳を重ねて、短気な私もだいぶ丸くなった気がしてまして、
人に怒ったりイライラしたりすることが昔よりもかなり減った気がします。
こういう風に思えるようになったのも「加齢」と「寛容」のおかげです。

って言えたらかっこいいんでしょうけど(笑)、
残念ながら今でも時折イライラしますし声を荒らげることもあります。
あくまでも減っただけで無くなったわけじゃないってことですね。

Twitterも以前に比べて見る機会が減ってるんですよ。
毎日暇があるとちょくちょく見ていたものが、
今はそんなスキマ時間があるならもう少し別のことをするようにしてます。
Twitterでぶっちゃけても良いんでしょうけど、
今の私にはこうしてブログで秘めた思いを綴っていくほうが性に合ってます。

というわけで、長めの割には内容の薄いブログになりましたけど、
こういうのも私らしい感じで良いでしょう?(笑)

Jackie McLean / It's Time【ジャズのススメ 22】

ジャッキー・マクリーンのこのアルバム、

実は最初聴いたときはあまり好きじゃなかったんです。

 

このアルバムに参加しているハービー・ハンコックのピアノが、

彼のいつもの音色と少し違うような感じだったってのもあります。

で、このアルバムを押し入れの隅へと追いやったんですが、

ハンコックの別のアルバムを聞いているときに、

ふとこの「It's Time!」の音色が頭のなかで再生されてきたんです。

あの時よりも年令を重ねて少しは感受性が変わったかもしれないと思い、

おもむろにこのアルバムを手にとって聴いてみたんですよ。

 

これがとても心に響くんです。理由はよくわからないんですけどね(笑)。

 

It's Time

It's Time

 

 

ジャッキーの奏でる音色を最初に聴いたのはこのアルバムでありません。

確か以前にも紹介したケニー・ドーハムのアルバム「Matador」でした。

このアルバム、特に「El Matador」が大好きなんですけど、

このアルバムにA.Saxで参加しているのがジャッキーでした。

それで彼のサクソフォンの音色に魅了されたというわけです。


Kenny Dorham - El Matador

 

さてIts Timeです。

どの曲もとても良いですが、表題曲「It's Time」がいいですかね。

言いたいことはたくさんあるんですが、とりあえず聞いてみてください。


Jackie McLean - It's Time

 

音楽の好みでヒトをはかること

このブログを書いている日の前日、出張から帰ってきました。

 

その帰りの飛行機で一緒に出張に行った人と音楽談義をしたんです。

私はクラシックやジャズから最先端まで音楽に関してはカバーしている人なので、

世代を問わず音楽談義出来ることが私の数少ない自慢のひとつでもあります(笑)。

 

「ハードロックって苦手なんですよね」

その人はこういう言葉をふと吐き出したことからその会話は始まります。

「へー、どうして?」

ハードロックも好きな私としてはその理由を質すことはアタリマエのことでした。

「だって音楽として聞くに堪えないじゃないですか。っていうかアレってそもそも音楽といえるんですか?ヘヴィメタルとかハードコアとか」

「まあ、そういう考え方もあるよね」

ハードロックやメタルをことさら嫌う彼のその言葉にほんの少しだけ不快感を抱きながら私は、ことさら冷静になってその考えを飲み込もうとしていました。

「日本人なら日本の歌手の曲を聴くのが当然でしょ。[Alexandros]とかSuchmosとか最高じゃないですか」

「うん、たしかに彼らの音楽『も』すごくいいよね」

ほんの少しの不快感が私の『も』に込められていることなど、ハードロック嫌いの彼が気づくことなど無くその後も延々と好きなアーティストの話をし続けました。

そもそも[Alexandros]ってロックバンドじゃないか、と心のなかでツッコミ入れつつ。

 

 

私は数限りなくこういう経験をしています。

ジャンルの垣根なく音楽を聴いている人の方が実は圧倒的に少ないということを、この数限りない経験で私は否応なく叩き込まれました。

それぞれのアーティストに思い入れがないというわけじゃないんですけど、

物事を鳥瞰図のような視点でいつも見てしまっている人なので、

悟りを開きそうな感じ、と私をよく知る人には言われることがあります(笑)。

私の悪癖のひとつってことは理解しているんですけど、

職業病的にそういう風に音楽を聞いてしまっているんですよね。

 

だからもちろん、[Alexandros]もSuchmosも私は聴いてますし、

それと同時にMEGADETHだったりルイ・アームストロングだったりモーツァルトだったりGReeeeNだったりも並行して聴いたりしているわけです。

そういうことが当たり前だと思っていた私にとって、

前述のような経験はまさにカルチャーショックでした。

 

音楽の好みでヒトをはかること。

 

確かに同じ好みだったら嬉しいですし、

その共通項を取っ掛かりにして仲良くなることが出来る可能性が広がります。

ただ、その共通項だけならいいんですけど、

あまり知らないアーティストや嫌いな歌い手さんについて、

相手の人がそのアーティストが好きかもしれないのに、

平気でこき下ろしたり悪口雑言を並べ立てたりすることって、

言われる方のこと考えてないんだろうな、と思うんですよ。

 

排他的な人って結構多いんですよね。

Aが好き、でもBは嫌い。

それはそれで感情に由来しているものだし仕方のないことでもありますけど、

その嫌いという感情を伝播しようとする人たちがいるんです。

「私はBが嫌い。だからお前も嫌いになれ」と単刀直入には言わないでしょうけど、

「お前ももちろん嫌いだよな?」というニュアンスをこめてきます。

そしてその予想を覆す返答をすると、

そういう人たちはその人の好みを否定し、しまいにはその人自身を攻撃します。

音楽性の違い、というだけの理由でその人格さえ否定してしまう、

そういう行為が当たり前のように行われています。

直接だったりSNSなどを経由して間接的だったり、

その形は様々ですが、自分の好みや嫌悪を押しつけてきます。

 

そしてその空気は伝播します。

 

何を好きになろうと嫌いになろうと、それは個人の裁量です。

ただそれが個人という枠をこえてくるんです。

個人を超えてやってくるその好きや嫌いという感情を、

スルースキルがある人ならまだしも、

スルーすら出来ずその身に浴び続けてしまうとどうなるんでしょうね。

 

私は音楽の好みを押し付けることはないです。

ブログで好みを垂れ流しているだけです(笑)。

そもそも押し付けるだけの好みを持ち合わせてないですから。

音楽の好みでヒトをはかること、はしたくないです。

好きな音楽をオススメして嫌いになられると凹みますけど・・

 

好きも嫌いも人の常、ですよね。

匿名希望

ここ最近ずっとモヤモヤと考えていることがありまして。

あ、どうも絶賛フランス滞在中の私です(笑)。
※現在2月10日の深夜です。


ラジオなどでもよく使われていた言葉「匿名希望」。
はがきや手紙などには本名や住所などの個人情報が使われています。
それをそのまま読まれることをあまり好まない人であったり、
諸般の事情で名前を表に出したくはない方などが使っていた印象です。
要するに本名を読まずにはがきや手紙の内容のみを紹介などして欲しいわけです。

Twitterもそうですよね。
有名人や企業など、名前を表に出しているお仕事をされているひとはそのままですけど、
一般の方や一般でない方(意味深)は本名でやられている人のほうが少ないです。
つまりは匿名性が高いということですよね。



身バレ、という言葉があるんですけどご存知でしょうか?
「身元がバレる」という意味のネット用語だそうです。
こういう略語だったりネットスラングだったりというのを、
私はあまり好んで使用しません。冗談で使うことはありますけど。



話が右往左往してすいません。
何が言いたいのかというと、
Twitterなどの匿名性の高いツールを使っていると、
おいそれとは身バレしないという安心感がある、というわけです。
(絶対身バレしないかというとそれも甚だあやしいわけですけど)
つまり匿名であれやこれやをつぶやくことができるというわけです。

で、Twitterには「リプライ(返信)」という余計な機能がありまして。
それを使うと、とある人や団体が公開したツイートに対して、
匿名のまま相手に返信をすぐに送ることが出来るんですね。
つぶやきに対して返信するっていうのもちょっとおかしい気もしますけども(笑)。
それが共感や同意などの賛同するものであるなら良いんですけど、
世の中には様々な考え方をしている方々がいらっしゃいます。

とあるメーカーのツイート内容に対して、
その内容とは全く関係のない商品に対するクレームめいたリプライを送ったりします。
それも口調が丁寧なものから、喧嘩売ってるかのようなものまで様々あります。
ひと昔前なら電話や封書などで意見を送っていたものが、
ラジオの匿名希望のように、
自分は安全なところにいながら、攻撃ならぬ口撃をしているというわけです。
中にはそのためだけに作られたアカウントなるものも多数存在しています。


そういう意味で言うとTwitterってとても便利なツールでありながら、
その便利性がゆえにこうした悪意に満ちた行為がそこここに見られます。




ちょっとすいませんが、ここから少し感情的に書きますね。



小中高生みたいに、まだ世間ずれしていないクソガキが、
いっちょ前に芸能人や大手企業に向かって意見をぶつけるという構図は、
はたから見ても滑稽だし、アホやなぁと思います。
ましては成人済みの大人だったり、
果てはいい歳をしたクソジジイやクソばばあまでもこうしたことをしている始末。
Twitterという便利なツールを利用して、
一個人に少しでもダメージを与えてやろうという意図が見え見えで、
見てるこっちが恥ずかしくなることが本当に多い。
Twitterしてる時間があるならもうちょっと建設的なことした方がいい。
要望があるならちゃんと企業に正式にクレームを入れるくらいの気概じゃないと。
SNSの公式アカウントにいろんな悪態ついたところで何が変わるわけでもない。
ツイートで悪口雑言を書き連ねたところで、
結局のところそれは自己満足以外の何物でもない。
自分と真逆な意見を持っているから、という理由だけで、
その人に対して攻撃的なリプライを送り続ける粘着質なやつもいたりするけど、
そういうサイコパスの言うことを真に受けるやつの方が少ないと思うよ。
それが自慰行為とほぼ同義であることにいい加減気づいた方がいい。



というわけで感情的に書いてしまって不快になった人すいません。
理性的な私に戻ります。

悪意は伝染します。

最初は興味本位であったり、からかいであったりするんですけど、
それが相手が自分と同じ価値観を共有しているということは極めて稀です。
その行為に対して相手がどういう思いをするのか、
その行為をもし自分がされる側になったらどう思うんだろう、
というほんの些細な想像力が完全に無くなってるんですよね。
だから人を躊躇なく傷つけられるし、
傷つけていることをそもそも自覚できていないというわけです。



ここまで書いてきて思ったけど、
こういう文章を読んでも、そういう人には全く共感も感銘もないんだろうなあ。
書いてて虚しくなってきた(笑)。

でもこういう場でこういう文章を書いてしまうのが私の性質なんでしょうね。
ここでこういうことを書いたとしても何も変わらないって知ってて、
でもどこかに思いのたけを書きたくてこんなことしてる。
私も彼ら彼女らと同じなのかもしれません。

Wayne Shorter / JuJu 【ジャズのススメ 21】

ウェイン・ショーターの有名なアルバムです。

このアルバムタイトル「JUJU」から自らの名前を取ったのが、

今日本の音楽界で活躍されているJUJUさんであることはよく知られてます。

 

余談ですけど、昨年ブルーノート東京で行われた、

JUJUさんのジャズライブにも実は行きました。

もともと彼女の歌声は好きで、

「素直になれたら」は彼女の歌の中でもかなり好きな曲です。

この曲が収録されているアルバム「What's Love?」は今でもヘビロテを・・・

 

ああ、しまった。ウェイン・ショーターの話をするつもりが、

いつの間にかJUJUさんのことになってた(笑)。

 

Juju

Juju

 

 

アルバム一曲目の表題曲「Juju」もいいですし、

「House Of Jade」とか「Mahjong」「Yes or No」あたりも大好きです。

外れ曲ないんですけどね(笑)。

 

ウェイン・ショーターの少しクセのあるT.Saxの響きは人を選ぶんでしょうけど、

私は大好きですね。

 


Wayne Shorter - Yes or No

 

フェリックス・メンデルスゾーン

の誕生日だそうです。2月3日。

 

真夏の夜の夢の「結婚行進曲」だったり、

昔、某たまごのCMでも冒頭部分が使われたヴァイオリン協奏曲など、

40歳に満たずして亡くなってしまった天才作曲家です。

 

誕生日に彼の曲を聞こうと思い、

あまり知られていない曲を聞こうと思ったんです。

といっても殆どの曲が有名なのですけれど(笑)。

 

なので前述のことは全て忘れて、今私がどっぷりと聴いている吹奏楽にしようかと。

吹奏楽のための序曲 Op.24」です。

天才フェリックスが15歳の頃に書いた作品ですが、

ところどころに彼が尊敬していたモーツァルトやベトヴェンの影響を感じます。

 


吹奏楽のための序曲/メンデルスゾーン

 

 

乗車マナーに関するワタクシ的一考察

都内近郊の電車の路線図を見たことがある人ならわかると思うんですが、
JRや私鉄、地下鉄が網の目のように入り組んでいて、
目的地へ行くためにはどの路線に乗れば良いのか迷う方も多いそうです。
地方から上京してきた人でも、そういうのにすぐ慣れてしまう人もいれば、
未だに路線検索などのアプリを使用している方もいらっしゃいます。

東京にいる人の大半は地方民である、とはよく言われていることですが、
往々にして電車でのマナーは地方へ行くほど良くなっている傾向です。

回りくどい言い方なので、単刀直入にいうと、
都内の電車マナーって本当に悪いんですよ。
大都市の電車はほとんどそういう状況なんでしょうけど、
関西にいた頃に利用していた電車よりも、
今自分が利用しているJRだったり私鉄だったりのマナーが最悪です。


とまあ愚痴っぽいところから書き始めてしまいましたが。


昨日のお話をします。
仕事帰りに電車に乗っていたときのことです。
目的の駅まであと3駅というところで、
20代~30代で構成された5人組の男性が乗り込んできました。
しかも二人は巨漢、つまりデブですね。
それだけでも悪い意味で幅を利かせているわけですが、
あろうことかその5人組、乗ってきたドアからそのまま真ん中に居座ってしまったんです。
ま、実際座ったわけじゃなくて屯していただけなんですけども。
まだ奥には結構スペースに余裕があったんですけど、
彼らはトークに夢中でそんなことに全く頓着していない様子でした。
で、その巨漢の一人が背負っていたリュックが、
ずっとその近くで吊革を持って立っていた壮年の男性の背中に何度も当たってたんです。
そのことをずっと気にしている様子だったんですが、
当の巨漢はやはり仲間との話に興じていて気づく様子すらありません。
結局目的の駅までその状況は続いてました。

例えば、その5人組の若者がもう少し奥に陣取っていたとしたら。
途中駅で乗り込んだり降りたりしていくお客さんも迷惑には思わなかったでしょう。
前述の巨漢が、あの時よりももうちょっとだけ触覚に鋭敏だったのなら、
きっとあの壮年の男性がリュックが常に当たり続けているということもなかったでしょう。



そう、ほんの少しの「気づき」、それだけである程度のことは改善されるはずなんです。



鉄道会社がそうした迷惑行為に対して、
吊り広告や張り出したチラシなどを利用して警告をしているイラストをよく目にします。

荷物を床や網棚ではなく自分の席の隣においている人、
キャリーバッグを足で挟んでしまい、通常よりも多くの幅を取って座っている人、
リュックを背負ったまま満員電車に乗り込んでうしろの様子に全く気づかない人、
イヤホンから割りと大きめな音漏れがしているのに当人だけ気づいていないこと、
大声で話しているのは自分たちだけなのにそんなことに頓着してない様子の人、
マスクやタオルで隠すこと無くくしゃみや咳を多量にしている人、
偉ぶっているのかなんなのかわからないけど、
やたらと股を広げて座って隣りにいる人の怪訝な顔にまったく気付いてない人。


電車内には様々な人がいます。
そして、得てしてそういう迷惑行為をしている人は、
そんなことに自身が全く気づいていないことが圧倒的に多いです。
わかってやっている確信犯もいないとは言いませんけど(笑)。
そうした人たちがちょっとでも周りに視線を動かせば、
ほんの少しだけ気づきを持ってくれていれば、環境は変わるはずなんです。


こういうことを書くと、
「最近の若いもんは・・・」という言葉を口にしそうになる方も多いと思いますけど、
私は年齢でそういう区別はしません。
残念ながら、上述の迷惑行為は年齢性別とは全く無縁です。
若い人の方が比率として多いのかもしれませんが、
私の体感としてはじじいやババアの方が圧倒的に多い印象です。

私が老人を敬う感情に乏しいのも、こうした行為も一因としてあるかもしれないですね。
あ、誤解のないように言いますけど、ちゃんと席は譲りますし、
車内で困っているご老人がいれば手を差し伸べたりします。
すべての老人が嫌いというわけじゃなく、
ごく一部のクソジジイやクソババアが嫌いなだけです。



こういう迷惑行為に対していろいろと複雑な思いを持っている人というのが、
私を含めてたくさんいると思うんですけど、
そういうのを面と向かって注意をすることが出来る人っていないんですよね。
まあ私もそういう多数派の一人であるんですけど。
昨今、他人と極力関わりになろうとしない人が増えました。
凶悪な事件やちょっと常識外れなことが増えてきて、
そういうことに巻き込まれるのは御免被りたいという風潮が拡がってしまい、
隣同士に住んでいるのに一度も顔をあわせたことがないなんてことも、
実は日常になってしまっているようです。

他人と関わることが昔に比べて圧倒的に減っているってことですね。
そんな状況だから、「気づき」にくいことが多いんだろうなぁとも思うんです。
迷惑行為をしている人が気づかないのも、
そういう時代がもたらした弊害のひとつなのかもしれないですよね。

見方を変えればいろいろと気づくことも多くなります。
一方向に固執すること無く、多方面から物事を分析する、
というのは私が昔から行っている癖でもあるんですが、
統計的に見ると、物事に固執している、あるいはしやすい人が圧倒的に多いんです。
私が少数派である、と言いたいわけではなく、
先に言ったとおり、ほんの少しの「気づき」に気づいて欲しいだけなんです。
(気づきに気づくって言葉もちょっとおかしいですけど・・・)


だらだらとここまで書いてきました。
言いたいことが見えない、と自分で書いてても思います。
そりゃそうです、話をまとめようなんてこれっぽっちも思ってませんから。

あくまでも「一考察」ということで、ここはひとつ(笑)。