私が好きな作家の一人である坂木司さんの著作「夜の光」にこんな一節があります。
>>>>>
「あのね、彼氏に言われたんだ。もういいかげん捨てろって」
「ぬいぐるみを?」
「そう。その歳になってぬいぐるみと一緒になんて恥ずかしいから、処分しろって。いい歳して名前つけるのもキモいからやめろって」
その歳になって。
またか、と俺は思う。
なんでもそうだ。
いくつになれば何を着て、
いくつになれば何を捨てる。
自分で決めたはずの切り替えを、
他人に押し付けられる不自由さ。
放っておいてくれれば、
そこまで馬鹿なことはしないよ。
制服のない学校を見るたびに、
俺は心からそう思う。
押しつけられる服がなければ、
着崩す必要もない。
制約がなければ、
度の過ぎた自由には進まない。
>>>>>
この文章のあと、「俺」はその女の子にこう言います。
「好きにすればいいじゃないか」と。
さらに「俺」はこう続けます。
「歳だからどうしろなんて、余計なお世話だ。好きなものを好きと言って、何が悪い。好きなものを大切にすることの、どこが問題なんだ」
そして最後にこういって締めくくります。
「自分の彼女に好きなものを捨てさせようとする奴の方が、俺は間違ってると思う」
少しネタバレになりましたが「夜の光」の中の一節をほぼそのまま書きました。
主人公格の1人である「ブッチ」という高校生と、
とある理由で校内にやってきた女子学生との会話です。
結構前に読んだこの小説、坂木司さんの作品でも好きなものの一つです。
そして鮮烈に覚えているのがこのシーンでした。
好きなモノを好きと言って何が悪い。
そのとおりだと思います。
しかし、それをそのまま臆面なく言える人がどのくらいいるのでしょう。
私たちの周りには数多くの「好きなもの」があふれています。
でも、その「好きなもの」を好きでいつづけることというのはとても大変なのです。
考えてみると、
まだ神戸に住んでいた幼少期にハマっていたことをすっかりやらなくなったことに気づきます。
例えば「酒蓋集め」。
地元の市場の酒屋さんの裏手に積まれていた空き瓶についていたお酒の瓶のフタ。
それらを何の疑問もなく友達と一緒になって集めてました。
例えば「ゲームセンター」。
最寄り駅近くにあった比較的大きなゲームセンターや、
近所にあった駄菓子屋の中にあるゲームコーナーなど、
10円から遊べる筐体が数多くありました。
高校在学中、帰りに寄って遊んでいた記憶もあるのですが、
関東に出てきて弐寺民になっていたあの頃以来、全く行かなくなってしまいました。
例えば「川遊び」。
近所にあった川。
ハシゴや階段などもちろんないその川に降りて行って、
スベって転んでおしりを強かに打ったり、
浜辺のカップルの真似事のようなことをしたり、
小さな魚を追いかけまわしたりしてました。
今、というより幼少期以来川遊びもやらなくなりました。
なんだか話の方向性が変わりつつあるので軌道修正しますけど(笑)
こうしたことをいつの頃からかやらなくなって久しいですね。
幼少期に大好きだったそういう遊びを今もやりたいか、と言われると首肯しかねる自分がいます。
小中学校時代はレコードやCDやらを買いあさってました。
いろいろな音楽を知るきっかけともなった音源集めですが、
30歳を過ぎたあたりからめったにCDを買わなくなりました。
それまではいわゆる「ハサントラ」といわれる人たちのように、
あらゆるCDを買い続けていたわけですが、
そういうのもやらなくなって久しいです。
(とは言いつつも相当枚数のCDは未だに所持してはいますけれどもw)
ふと思ったんです。
自分が年を取って死んだ時にそういうものを残すことに果たして意味はあるのかどうか、と。
「今の自分が満足できるのならいいじゃないか」なんていう気持ちだったのははるか昔の話で、
アラフォーともなると人生の先行きなんかも考えてしまいがちになります(笑)
物を集める、という所業もそんなことを思うと「ま、いっか」という感じになってしまいがちになります(笑)
これが「老化」です。
・・・話がいけない方向に行きそうなので戻します。
昔は、好きなものが共通している者同士が集まって語れる場というものはそれほど多くなかった印象です。
私自身が知らなかっただけでその当時でもそういう場があったのかもしれませんが。
それがTwitterなどの普及により、
「匿名で、好みが共通している者同士が気軽に見つかる」ようになって、
それだけの話題に終始してしまうことも珍しくなくなりました。
そうすることで得られる満足感というか恍惚感というか、
そんなものを手軽に感じることが出来るのは良いことなのかもしれません。
それが「好きなものを好きでいつづける」ことに拍車をかけているようにも感じます。
「自分だけだと思っていたのにこんなにたくさんの同志がいるんだ」という気持ちがエネルギーとなり、
その気持をさらに奮い立たせていくのかもしれません。
つまり、「好きなものを好きでいつづけること」が容易になりつつあるわけです。
ただまあ、そうなると私のようなものは「ちょっとひいてしまう」んですよね。
周りが盛り上がれば盛りあがるほど、こっちはどんどん心が離れていくような感じなのです。
最近ツイートを控えめにしている、
というかSNS自体を控えめにしているのもそういうのが理由としてあります。
「キモい」とか「うっとうしい」とか、そういった負の感情が頭をもたげてくるのを感じてしまうからです。
人のことを嫌いになりたくないから、好きでいつづけようと思うから、
じゃ、Twitterやめちゃお、と思ったこともありました。
一度離れて冷静にTLを見られるようになってから戻ってこよう、とも思いました。
坂木司さんの言葉はとても平易だけど胸に突き刺さることが多いんです。
それが氏の著作を読み続けている理由でもあるのですが、
「あたりまえのことをあたりまえではないと思わせてくれる」稀有な作家さんでもあります。
※私見です
だから、あたりまえのことである「好きなモノを好きなだけ語る」ということが、
実は当たり前のことではないってことに気づいて、ちょっと考えさせられたんですよね。
人に押し付けられる「すき」。
そして自分自身が持っている「好き」。
この2つが共通していれば何の問題もないはずなんですけど、
人はその「すき」の押しつけに気づいてない場合が多いのです。
それを毎回のようにやられると辟易としてしまいます。
冒頭の文章に出てくる女の子のように、
「いい歳をしてぬいぐるみに名前をつけて大事に持っている」ことは、
端から見たら変なのかもしれませんけど、
「好きなんだからしょうがない」という言葉で片付けられるわけですけど、
AさんとBさんがいて、Aさんが好きなモノをすすめてきて、
「絶対Bさんも好きになる、間違いないから!」といって、
Aさんの持っている「すき」を押しつけられるというのは、
気持ちとして分からなくはないけど、やっぱり辟易とするのだろうなぁと。
仮にBさんがAさんにすすめられたものを堪能して、
「ああ、そんなに好きではない」と言ってAさんに逆ギレなどされた日には・・・(笑)
また私の話をして申し訳ないんですが。
私のいる部署は割とオープンなところで、
自分の趣味を堂々と語ることが出来るという面白いところです。
だから私が音楽好きでありゲーム好きであることは知られてますし、
課員の中にもアニメ好きやミリタリー好きやゴスロリ系が好きっていう人もいて、
そういうのを臆面もなく語ってきます。
ただこういう職場って稀なんだ、ってことも自覚はしています。
だから「匿名性を保ったままで情報を共有できる」というツールがとても利便性があるってことも理解はしてます。
匿名性を保っているから何でも話していいというわけでもないと思うんですけど、
「すき」の押しつけが横行しているのは見てて快いものではないよな、と。
こうやって書きながら、
自分はネット民としての耐性が低いんだなってことを理解し始めてます(笑)
好きなものに制限はないと思います。
だから「いくつになっても好きなモノは好き」っていうのも当然ですし、
冒頭の少女みたく、それを声高に叫ぶことが出来ないというのもわかります。
だからといって「いじめられっ子たちの隠れ家」みたいなところに集まって、
小さなコミュニティで自己満足をしているというのは私は苦手なんです。
グローバル、という言葉はあまり好きではないんですが、
あとほんのちょっとだけ視野を広げてみたらいいのにな、とか思うことが結構あります。
「好きなものを好きでいつづけること」は、
傷ついたり落ち込んだりした時に、自分自身の心の糧になってくれるんでしょうね。
「これがあるから私は大丈夫」って思えるだけ「好き」が続いていれば、
きっとその「好き」は本物なんでしょうね。
私も早くそんな「好き」に出会ってみたいものです。