何かの対談だったと思うのですが、
ドラクエシリーズの音楽を手掛けられたすぎやまこういちさんが、
その中でこのようなことを仰ってたんです。
「『独創性』と『奇を衒う』というのは紙一重のように見えて全く違うものです」
インタビュアーの方が、
「ドラクエのような中世ヨーロッパを舞台とした世界に、その時代の流行音楽を付けてみようという発想はなかったのですか」
という質問をすぎやまさんにされたんです。
そしてその答えが前述の言葉となります。
私がすぎやまさんの音楽が好きな理由のひとつが、
そのレパートリーの豊富さにあると私は自分で分析しています。
グループサウンズの曲から室内楽やオーケストラの曲、
ロック調の曲からCMなどの短くてインパクトのある曲など、
あらゆる曲を網羅されているすぎやまさんが、
独創性について語られている貴重な対談であったと、私は記憶しています。
ファミコンの音楽が効果音程度のものであった当時から考えると、
すぎやまさんがゲームの音楽を担当されたことで、
飛躍的にこの分野の裾野が広がったと思っているんですけど、
こういう意見をいうと「いや、それは違う」とおっしゃる方も出てくるので、
明言することは避けておきましょう(笑)。
すぎやま節という言葉があります。
すぎやまこういちさんの作る曲というのが自然とわかる、
例えばコード進行だったりメロディだったり、
そうした癖のようなものが作曲家の方にはそれぞれあるんですね。
それが個性であり独創性を生むことになるわけです。
奇を衒う(きをてらう)という言葉の意味は、
「人と違うこと、奇妙なことをすることで相手の注意、関心をひくこと」です。
以前書いた現代音楽の話と少し通じるところがあるんですが、
今の現代音楽ってまさにこの「奇を衒う」ものが多い気がするんですよ。
もちろんそれなりに技法や技術をふんだんに使用して作られてはいるのですが、
その技法や技術自体がすでに古臭いものであり、
先人の受け売り、モノマネの域を出ているものが少ないとも思うんです。
ジョン・ケージやスティーブ・ライヒなどのラディカルな音楽家が、
いろいろと模索をして新しい音楽を築いてきました。
今の現代音楽ってその革新的なところから飛び抜けないで、
井の中の蛙のように、作られた枠組みの中でもがいている感じを受けます。
もちろんそうした枠組みの中でも、創作は可能ですし、
彼ら以後もそうした音楽は発展を続けていることもまた事実です。
私も時々そうした音楽へ回帰したくなることがあります。
クラシック音楽を生で聴いたりするのもそうした回帰の一環なのでしょうし、
生で音楽を聞くこと、それ自体がいい刺激にもなります。
SNSなどで演奏動画などをUPされている方が多くいらっしゃいます。
その多くは残念ながらモノマネ以外の何物でもないわけですが、
技術を人に見てもらう、ということは必要不可欠であるとも思ってます。
奇を衒う、という言葉では言い表せない衝動のようなものに突き動かされて、
自分の演奏したもの、作曲した作品を多くの人に聞いてもらいたい、
という発想は当然のものである、と考えてます。
ただ、そうした動画を見ても心が動かされることは殆どありません。
独創性というものがありませんし、
どちらかというと奇をてらっているものが圧倒的です。
独創性はモノマネから作られる、という言葉は誰が言ったのかは知りませんが、
モノマネだけでは独創性は生まれません。
やはり何かスパイスのようなものがそこに足されないと、モノマネのままなのだろうな、と。
「モノマネ上等」と腹をくくって、
モノマネに徹していらっしゃる方もかなり多いのは承知してます。
そうした心意気って演奏にもあらわれているような気がしますし。
以前の私ならばそうしたものを嬉々として聴いていたんでしょうけど、
今はあまりそうしたものに対して食指が動かなくなってしまいました。
人は変わるものなのですね・・・