前回までのあらすじはこちらから。
中学校3年生のお話からになります。
音楽室での衝撃的な出会いから友達になったアメリカ人とは、
その後も文通などを通して情報共有してました。
当時はネットがまだ普及していない頃でしたし、
そもそも、手軽に通信できる携帯電話もない時代でしたからね。
今ならメールやLINEを使ってやり取りできることも、
相当な時差を持った連絡手段しかできなかったとても不便な時代です(笑)
私はそんな不便な時代も好きでしたけどね。
実は友人の彼からこんなお話を聞いたんです。
「僕はバークリー音楽院でジャズの勉強をしたいんだ」と。
今もそうですけど、ジャズをやるならこの音楽学校のことは避けて通れません。
いや、避けて通れるんですけど(笑)、
多くのピアニストがここに入学して世界へと羽ばたいていきました。
ジャズを通じて意気投合した私たちが、
そんな彼の一言から二人でバークリーを目指し、そして入学するわけですから、
人生何が起こるかわからないもんです(笑)
私は諸般の事情で彼とは一年遅れて入学することになるんですが、
そのお話はまだまだ先のことなので、ここでは詳細に触れないでおきます。
中学3年生となり、いよいよ進路のお話が本格化してきます。
いじめられるのを避けるために勉学に専念していた私は、
そのころにはすでに学年上位の成績をキープしていました。
なので進学校へ行くものと、私の親も先生も思っていたみたいです。
私の住む兵庫県神戸市で有名な進学高校といえばあそこです。
当時の私の成績では、何とかギリギリ入学できるかどうかというラインでした。
その進学校、仮にN高と書いておきますが(笑)、
そこへの進学を目標として先生も親も動いてくれることになりました。
ただ、そのころの私は前述の通り、ジャズを勉強するために、
アメリカへと留学することをすでに決めていました。
教育ママ、という言葉が一般的だったそのころ、
私の母親もその御多分にもれずそうした傾向のある人でした。
クラシック音楽を好む人ってそういう人が多いんでしょうかね。
いや、これは偏見が過ぎました。。。
中学3年生になっても、基本的には同じ顔ぶれなので、
いじめられる奴はいじめられてますし、
いじめる側は容赦なくいじめています。
そんな彼らとかかわることなく、私はずっと殻に閉じこもっていました。
のちにボストンに住むピアニストの彼と結婚することになる、
私と同じクラスの彼女は、相変わらずの冷たい態度でしたけど、
出会った頃よりは少し軟化したみたいでした。
学校内ではほとんど接触をしてこなかったですけどね(笑)
彼宛に手紙を出すときには一緒に手紙を出してくれたりしてくれましたし、
家のポストに彼女からの手紙が来ることがありました。
私から彼女へ話しかけることも、手紙を書くこともなかったですけど、
それでも彼を通して絆めいたものはその当時築けたような気がしなくもないです。
私の錯覚かもしれませんけど・・・
今現在、2019年。
そんな彼女は事あるごとに夫への不平不満を私にメールしてくるようになります。
彼女も、もちろん私もオタクではないんですけど、
私の無二の友人でもある夫の破天荒な趣味ぶりに少しへきえきとしているようです。
それでもうれしそうな表情をするんだから、うれしいやら歯がゆいやら。
中学3年のころのエピソードってあんまりないんですよね、実は。
いじめられてたわけでもないし、いじめに加担したわけでもない。
学校ではずっと自分の殻に閉じこもり続け、授業は真面目に聞き、
テストのときだけはいろんな人から助力を請われて、
そんな時はなんだかいい気分だったのをおぼえています。
家に帰ったら買ってきたジャズのCDを開封して聞いていました。
代り映えのしない学校生活。
旅行に行くこともなく、淡々と受験の準備を進めていました。
読書も欠かすことはありませんでしたね。
部屋にかじりついてずっと勉強というスタイルではなかったんですが、
母親のいる前では勉強している風を装っていました。
その間も、アメリカに住む彼との文通は続いていました。
「ヒロもこっちで一緒に音楽やろうよ」
「二人でバークリー行こうぜ」
というのを何度も目にして、次第にやる気がみなぎってきました。
そして、中学卒業時に一大決心をするんです。
そのころにはすでにN高の入学は決まっていました。
なので、母親も私の提案に甘い状態となっていたんですね。
「またピアノを始めたい」と言い出した時に、
少しいやそうな顔はしてましたけど、何とか認めてくれました。
祖父母が入学費用を出してくれて、無事に高校入学となりました。
この時の私は、高校になったら殻を破って自分をさらけ出せると思い込んでいました。
まあ、それもただの錯覚だったんですけどね。
(つづく)