音楽つれづれ日記

音楽好き、飽き性、そして中庸思考。

LIKES AND DISLIKES

好き嫌いは人の常、という言葉があります。


以前にも書いたかもしれませんけど、
私、ニュースを複数の媒体で見るようにしています。
新聞や雑誌などはもちろん、ネットニュースだったりSNSだったり、
その他もろもろ、なるべくたくさんのデータを欲する人なんです。
ただ、テレビでニュースは見なくなりましたね。
(この辺の話はいろいろとめんどくさいので省きます)

巧妙な見出しを使って読者を引きつけるメディアもあります。
そういう書き方するとそりゃ食いつくよなあ、って。
ネットのデマ拡散などもそうした「食いつき」を良くするために、
あえて書かないところは書かなくて、強調するところはよりデフォルメするんですね。
だから、見出しだけ見てもその内容の真偽がわからなくて、
その内容をきちんと知らないと真相や事実にたどり着かないことがあります。
なので、私はそうしたソースを複数見るようにして、
より信憑性の高い、というと大げさですが、
物事を複数の視点から見る、ということを習慣づけています。

「中庸」ってのが私の特徴のひとつですし(笑)。



ただ、そういう人って意外と少ないということに気付かされます。

ソースを配信する側としてはより精度の高いものを発信しようとする場合と、
食いつきのみを重視して誇張したものを発信する場合があります。
商売なのでそうした使い分けも必要であることは承知してるんですが、
そればっかりのところも少なくないこともあって、信頼度は急降下です。
なので、ネットの掲示板やアフィリエイトブログなどで、
悪意のある記事の切り取り方などを見ると情けない気持ちになります。
同じ人間でも、金が絡むとこうも汚くなるものかと思います。

私が同じ立場だったら、という話はしません。
可能性がゼロ、というわけではないわけですからね。
金が絡むと人も変わるということは私も散々見せられてきましたし。
そういう人たちを「クズ」というレッテルを貼ってこき下ろすのは簡単です。
実際私もそう思ったことは一度や二度ではありませんし、
そういうサイトを自分から積極的に見ようとも思いません。
ただ、嫌いなものをたたく、という行為それ自体を正当化されることが、
どうにも理解しがたい心持ちになる時があるんです。
回りくどい言い方ですけど(笑)。


先に例をあげたアフィリエイトブログのことで言うと、
確かに悪意しかないであろう記事を見て、それに反論があるのは当然です。
その逆にそうした悪意に乗っかって同調している方々も多くいらっしゃいます。
様々な意見があること事態が普通であるわけなんですけど、
反論がある人が論理をカサにきて、自分とは違う意見の持ち主を攻撃したり、
果てはその攻撃力を増幅するために仲間を募ったり、
といったことが平然と行われていることが私には理解できません。
「なんでわからないんだよ」というのが常套句になっていて、
自分と違う意見を持っている人を、人非人の如く扱って、
まさにそうしている自分自身が人非人になっていることに全く気づいていないんですよ。

それって考えてみるとものすごく怖いことじゃないのかな、と。


SNSが普及したことで、「一億総評論家」とも言える時代が来ました。
先に上げた切り取られた記事などをそのまま鵜呑みにしてしまって、
汚染された意見を垂れ流し、それがヘドロとなって渦巻いて、
端から見たら近寄ることさえ禁忌ではないかとも思える状態が日常となってます。
そうした日常が当たり前になりつつあって、
「嫌い」という感情がそのまま攻撃力になってしまっている感さえあります。

好き嫌いは人の常です。
万物それぞれに好きと嫌いが同居しています。
ただ、そのアタリマエのことを実は理解していない人というのが、
この日本の中でも数多く存在しているということを知らなければなりません。

SNSの投稿で読んだんですけど、
物事の良し悪しと好き嫌いは別物なんですよね。
でも「好き→良い」「嫌い→悪い」という方程式が普通に横行しているんです。
仲間意識とでも言えば良いんでしょうか、
これが好きな人に悪い人はいない、であったり、
これを好きな人なんて悪い人に決まっている、であったり、
そうした決めつけが普通に行われています。
決めつけ、というと断定的ですかね。「その人にとっての真実」にしときます。


と、ここで「事実」と「真実」の違いを詳しく書いてみようと思ったんですが、
かなり哲学的な話にもなりますし、
書いててもつまらないことは自明なのでまた別の機会に・・・


SNSを通じて、自分と同調してくれる人を見つけやすくなりました。
そうしてできた集合体ってそれほど結束力はないはずなんですけど、
好きや嫌いが共通しているもの同士ということもあって、
意見の統一感が、人工的ながらも結束力を強く感じます。
私はそういった人工的な統一感というのがちょっと苦手な人間なので、
遠巻きにそういう集まり同士を眺めていることが前はよくあったんですけど、
近頃はそういう統一感に触れないようにしようと思って、
SNS自体をあまり見なくなりましたし、なるべくそこに触れないようにしてます。

じゃ、何故今回このようなブログを書いたのか。

なんでなんでしょうね(笑)。

前述の「好き→良い」「嫌い→悪い」方程式について、
すごく同意できる点があったこともあるんでしょうけど、
これをそのまま鵜呑みにしていないってこともあるんでしょうね。
どうしても人は錯覚をしてしまう生き物ですし、
恋愛感情であれ仲間意識であれ、共通項が多いと人は嬉しくなるものです。
これを好きな人なら大丈夫、という安心感も得られますから。
そういう感情も、中庸な私は一応頭では理解できます。
と同時にそういう安心感の危うさも同時に感じるんです。

このあたりの論理展開がまさにヒネクレモノなところなんですけども(笑)。


余計なことを考えずに、
好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、それでいいじゃないですか、
という思いも私の中ではあります。
そして多分こういう考え方が一番健全的であろうこともわかります。
そういう意味で言うと、私は健全的に生きられないんでしょうね。
正否双方の意見をくんで、水平思考していくという私の悪癖は、
きっとこれからもずっと変わらないんだろうなあ、と思いつつ、
それでも馬が合う人との意見交換を楽しんだり、
馬が合わない人ともやっぱり意見交換して楽しんだりするんでしょう。
「どっちつかず」「中途半端」というレッテルを貼られながら・・・