音楽つれづれ日記

音楽好き、飽き性、そして中庸思考。

古典としてのゲーム付随音楽

それなりに年を重ねているので、ゲームは創生期からプレイしています。

 

娯楽の殿堂・任天堂が出したオレンジ色の筐体をテレビにつなげて、

左右にわかれたプレイヤーがドット(球)を打ち合うものや、

携帯性のある時計とゲームが一体化したものや、

それこそゲームセンターに行って10~50円(当時)をつぎ込んで、

敵を倒したり、連射したり、仲間の邪魔をしたりするゲームにハマっていました。

 

それから30年以上が経過し、ゲームも多様化しました。

それにつれて、ゲームに付随する音楽も多種多様なものへと変化していきました。

 

私がゲームに付随する音楽を意識したのは、

たぶんファミリーコンピュータが出た頃だったと思います。

最初に買ってもらったのが「ベースボール」、野球のゲームですね。

お情け程度に各種チームが登録されていてそれを選んでプレイするんですけど、

もちろん選手名は表示されず、

チーム名も当時のイニシャルでしか判別できません。

 

この「ベースボール」というゲームには音楽がつけられています。

カセットを差してファミコンの本体の電源を入れると、

そこに「BASEBALL」という文字とモード選択出来る画面がいきなり現れます。

そのタイトル画面で使われている音楽があるんですね。

(厳密に言えば他にもあるんですけどね。プレイ中は効果音以外はありません)

 

タイトル画面の音楽、実は他のゲームでも転用されているんですよね。

作曲者は確か当時任天堂に所属されていた兼岡行男さんだったと記憶しています。

いかにも「これぞゲーム音」といった印象の音色ですね。

ファミコンの音色の細かい話をすると長くなるのでここでは書きませんけど、

こうした昔の特徴的な音色によって音楽がよりいっそう印象づけられた感じがします。

 

この後、スーパーマリオブラザーズドラゴンクエスト

ファイナルファンタジーなどといった、

今でもシリーズが続いている人気ゲームがファミコンで登場し、

ゲームにおける音楽の重要性が少しずつ浸透していきました。

中でもドラゴンクエストの音楽は、

当時、テレビやCMなどでも著名なすぎやまこういちさんが手掛けられて、

プロの音楽家ゲーム音楽を担当する先駆けとなりました。

 

私はこのドラゴンクエストの音楽がとても好きでした。

すぎやまこういちさんは、オーケストラ演奏の啓蒙活動の一環として、

ドラクエの音楽をフルオーケストラで演奏するコンサートが定期的に行われてます。

私も何度かその生演奏を聴いたのですが、感動で涙がでることもしばしばでした。

 

 

近年、こうした啓蒙活動などの成果なのかどうかはわかりませんが、

ゲームに付随する音楽を生演奏する機会が大変多くなりました。

プロの演奏家による生演奏、アマチュア演奏家有志が集って演奏する演奏会など

演奏形態は様々ですが、それこそ毎月のようにそうした演奏会が開かれています。

活況を呈しているこの状況が好ましいか好ましくないかはともかく、

ゲームに付随する音楽に触れる機会が多くなったことは、

きっとそのゲームのファンにしてみればとても喜ばしいことなのでしょう。

 

そうした活動がだんだん大きくなり、

ゲーム音楽が古典と言われるようになる」時代が本当に来るのでしょうか。

 

 

プロの演奏団体によるクラシックの演奏会がそれこそ毎日のように行われています。

クラシック音楽は固定ファンも多く、また多いがゆえに、

一風変わったクラシック音楽ファン(いわゆるクラオタ)も多いんですけど(笑)、

演奏される曲目も多岐にわたり、「古典」と呼ばれてもおかしくはない状況だといえます。

 

ジャズもそうですね。

ブルーノートをはじめとして専門の演奏する場が設けられていますし、

ジャズバーなどのお店も日本に多くあり、ジャズに触れる機会はとても多いです。

 

 

 

しかし、ゲーム音楽の歴史はまだそれほど深くありません。

100年後に果たしてこうしたゲームに付随する音楽が演奏されているのかどうか、

というのは、未来人でもない限りはわからないです。

 

 

そもそも、ゲーム音楽が古典になる、というのは、

実際にはどういう状態のことを指すのでしょうか。

 

 

 

たとえば。

ドラクエを一度もプレイしたことがない人がいるとします。

そんな人が、国民的ロールプレイングゲームの草分け的存在でもあるドラクエの音楽を初めて聞いた時、どのような感想を抱くのでしょうか。

きっとゲームをプレイしたことがある人、ドラクエファンとは全く違いますよね。

「ああ、この音楽はあの哀しいシーンで流れる曲だ」

というファンならば確実に理解している共通認識とは、

彼ら彼女らは別の次元で音楽を聴いていることになるわけです。

ゲームに付随する音楽として、この聞き方は正しいのでしょうか?

 

私自身は、音楽の聞き方に正しいも間違いも無いと思います。

音楽はそれだけで存在し得るものであり、

理論や製作背景を知らなくても音楽として聴ければそれはそれで成立します。

 

しかし、ゲーム音楽ファンから見るとそれは違う解釈となります。

「演奏会に来てるのにそのゲームをやってないなんて素人か」

という声も少ないながら存在することは事実です。

ゲームに付随する音楽は、そのゲームをプレイしたからこそ感動を共有できるものであって、

ゲームを知らない人が聞いてもそれは単なる音楽にすぎない、と理屈になります。

 

 

 

さて、ここでこんな意見を提示してみましょう。

A.「ゲームに付随する音楽を演奏する場合、演奏者がそのゲームを知っているのと知らないのとでは明らかに違うものなのか」

B.「ゲームに付随する音楽を鑑賞する場合、鑑賞者がそのゲームを知っているのと知らないのとでは明らかに違うものなのか」

 

Bについては先程ちょっとだけ話したので、 

ここではAの意見について考えてみましょう。

 

たとえばクラシック音楽をプロの演奏団体が演奏する時、

もちろんスコアを見ながら演奏します。(暗譜もありますけど)

この場合、指揮者による演奏指導が行われることが多く、

そこに指揮者のエゴはあっても、演奏者のエゴは反映されにくい、と思われます。

指揮者が求める理想的な音色、ハーモニーを奏でることに全力を傾けます。

(全力、というところに多少疑問は残りますけど)

室内楽の場合もフルオーケストラで演奏される場合も、

その方向性はあまり変わらないのではないかと思います。

 

ゲームに付随する音楽を演奏する場合も、スコアを見ながら演奏します。

そして、指揮者(あるいは作曲者)の意向をうかがいつつ、

その意向に沿った形で演奏されることになります。

ここで、プロの演奏者であれば、

たとえその奏者がそのゲームのファンだったとしても、

指揮者(作曲者)の意向を尊重して演奏をします。

演奏に多少の思いをのせているかもしれませんけどね。

 

かたやアマチュアの有志団体が演奏をする場合です。

彼らはそのゲームの付随音楽が大好きであることが多いです。

編曲者も思い入れが強いため、作業にも力が入ることもあります。

(私もその昔、動画サイトにオケ編曲した音楽を投稿した経験があります)

そういう思いが募って演奏されると、

果たして鑑賞者にその思いは伝わるのでしょうか。

 

極めて個人的な意見ですが、

どんな音楽であっても、下手くそな演奏を聞きたくはありません。

マチュアの団体の演奏や曲目に対する思いは多少なりと感じるのかもしれませんし、

そういう思いの詰まった演奏に心揺さぶられることもあるかもしれませんけど、

それよりも前提としてきちんと「音楽を奏でる」ことが出来ていないと、

それらの思いが届く前に興ざめしてしまう可能性は否定できません。

だったら、プロの演奏を聞いたほうがはるかに良いと考えます。

「ゲームへのひとりよがりな熱い思いを押しつけられる」のではなく、

「未完成かもしれないけれど音楽として成立されている」方がやっぱり良いです。

ゲームファンであれば前者が正しいものなのでしょうけれど、

彼ら彼女らが『音楽』を目指すのであればやはり後者であるべきです。

 

 

 

 

「他人の賞賛や非難など一切気にしない。自分自身の感性に従うのみだ」

こう語ったのは、古典派を代表する作曲家モーツァルトです。

 

この言葉って、ゲームの付随音楽を編曲したり演奏する人が、

たぶんモットーにしている言葉のひとつであるような気がしています。

きっと周りの雑音なんかにほとんど耳をかさずに、

自分が本当に好きなゲームの付随音楽を演奏したい、

あるいはゲームの付随音楽を通してそのゲーム自体を体現させたい、

という強い思いの上で成り立っているものだからです。

自分が体験したゲームでの思い出を具現化する作業は、

こうした熱意が無いとなかなか実現することが難しいものです。

 

100年後にどういう形であれ、ゲーム付随音楽が残っているのかどうか。

私は形を変えつつ残っていくとは思うのですが、さすがに100年は無いかなと。

コアなファンが語り継いでいくマイノリティとして存続し続けるかもしれませんが、

ファンからすればそれこそ「古典」と呼べるのかもしれないですね。