音楽つれづれ日記

音楽好き、飽き性、そして中庸思考。

当たり前が、当たり前でなくなるとき

ネットサーフィンという言葉が今でも通用するかどうかはわからないんですが、
たまたま先日ネット波乗りをしていた時のことです。

『その時は突然やってきます。
今まで大好きだったことが、
突然無関心になったり、逆に嫌いになったりするのです。
その要因が奈辺にあるのかわかりませんが、
大好きだったことが大好きでなくなることは間違ってはいません。
きっと、人生で必要ではなくなったことなのかもしれません。
だからそのことで気を落とすことはないのです』

こんな記述を見つけました。
文章そのままというわけではなく、うろ覚えなのですが、
おおむねこういうことを書いてありました。


以前このブログでも「好きな物を好きでいつづけるということ」ということで、
このことについて言及したことがあります。
確か、坂木司さんの著書「夜の光」の文章を引用したと記憶しているんですが、
「好きな物を好きでいるのに年齢や性別等の区別は関係ない」ということを、
なんとなーくまったりと書いたような気がします(笑)

それはそれで私自身の心の発露なので訂正するつもりはないんですが、
それとは別に「好きな物を継続して好きでいられること」が、
その人にとって当たり前になってしまっていることが少し怖く感じられるようになってきました。

現在の私はまさにこの、
「好きな物を好きでい続ける」ことができなくなりつつあるからです。


電車に乗っていた時のことです。
たまたま向かいに座った女性2人に目が行きました。
その一人がキャリーバックの上にちょこんとのったショルダーバッグに、
たくさんの缶バッジらしきものを付けているのが見えたんですね。
それはそれで全く問題ないんですけど、
そのバッジが、水泳を題材にした某アニメの主人公ばっかりだったんですよ。
まあ、アニメファンであればこういうことは普通にやってるだろうし、
以前の私であればきっと「ああ、ファンなんだなぁ」くらいに思ったはずなんです。

が、この時、私の心がスーッと冷めていく感覚だったんです。
つまりは、その人に「ひいてしまった」ということです。
そして、そのひいている自分に愕然としました。
え、なんでこんな気持になってるんだろう、と。

そのアニメについては私も一応当時見ていましたし、
その時はそのアニメにハマっていたはずなんですけど、
なぜか私はそのバッジの群れを見て、ひいてしまったんですね。


老い、という一言で片付けることは簡単です。
確かに私も70年代に生を受けてこれまで数多くのものに興味を持っては離れて行きました。
でも、これに関しては生涯ずっと好きでい続けられるだろう、という根拠の無い確信を持っていたんです。
それがもろくも崩れ去ってしまったことに、当の自分自身が驚いています。

以前はアニメやゲームのCDをアレだけ買いあさっていたのに、
今、そういう購買欲が全く無くなってしまいましたし、
ゲーム音楽の演奏会にもあまり興味を示すことが無くなってきました。

あ、一応言っておきますが、心の病ではありません(笑)
以前にもかかったことはありますが、自分自身でもそれはわかります。
全てのことが無関心、無気力というわけではないんです。
今まで好きだったこと、それも特定のことだけが無関心になりつつあるんです。
専門家が見れば、これも一種の心の病気と思われるのかもしれませんが・・・

こういうことが去年の暮れから今年の初めあたりに発現してしまって、
少しそういうところから離れてみよう、と思い立ったんです。


きっとまた大好きなあの世界に憧れる日が来るかもしれない。
もしかしたらもう二度とこないのかもしれない。
どっちになるかは今のところ分かりませんが、
それでも好きな物を嫌いになることだけはしたくないですし、
今でもその世界を愛している人を言動で傷つけるようなこともしたくありません。

からしばらくそこから離れます。


好きなことが当たり前だった時代。
そんな当たり前が当たり前でなくなってしまった今、
ちょっとだけ少なくなった趣味の残りを満喫し続けています。
きっと、そこへ戻っていけると信じつつ。